犯人当て$「バランス$うさぎ$天使」$問題編$-横書き$読みにくい版


2025/09/06  土曜日
文学フリマ東京40でかつての自分が頒布した犯人当てを期間限定で掲載します。
3.5万字ほどあります。申し訳ありません。
オーソドックスな消去法推理を指向して作りました。
どうかあなたを失望させませんように。

解答編はこちら(※工事中)











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学園構内図
2F, 1Fの図
屋上,ラボの図




問題編


● アリス……入学前。1号室。本土育ち。 ● フリーツ……1年生。1号室。発明家。 ● コメテ……1年生。2号室。いたずら好き。 ● ヴァニ……2年生。2号室。敬語が抜けない。 ● テウ……2年生。4号室。なごやか。 ● エメラ……3年生。4号室。頼られやすい。 ● バムル……3年生。3号室。人見知りする。 ●うさぎ……神聖な生き物。





【0】  雪はすでに止んでいた。  天頂に昇った月が、離島の夜をぼんやりと照らしていた。  殺さないと。今日こそ、殺すんだ。  決意の言葉とともに、垂れ耳ロップイヤーの少女は薄闇の中に白い息を吐いた。  氷点下の夜風が肌を刺す。  足元を確かめ、真っ直ぐ伸びた黒い線の上へ、一歩踏み出してバランスをとる。  もう一歩。震える身体を抑えながら……。 【1】  雪が降り始めた。  うんざりするほど重いトランクを引きずって辿り着いた昇降口で、私はローファーのゴム底を緑のマットでいじめていた。  放課のチャイムが鳴り、廊下の奥からがやがやと人の声が聞こえ始めたので、できるだけ余所者っぽい雰囲気を漂わせ、案内を期待して待つ。  ガラス戸の外ではしっとりとした大粒の雪が屋根付きの舗道に積もりはじめていて、はやく荷物を置きたいな、寮の部屋はどんなだろうと思いながら、長旅の重荷に疲れ切った手のひらへ息を吐く。 「あっ! 侵入者! バムルおねーさま、侵入者よ! もう来てたんだわ!」  浴びせられた大声に振り返る。  廊下の曲がり角に、女の子が二人。制服姿で、ブーツと外套(コート)もお揃いだ。小さい方が大きい方の袖を引っ張りながらきゃあきゃあ騒いでいる。 「ななな、なんでバムルが? ……ええっと、侵入者……いや違うよ、新入り……ちゃん。ども……。  ……コメテ、なんだっけ、名前なんだっけ……覚えてない?」目元にかかった縮れ髪をいじくりながら、背の高い方が視線をさまよわせる。 「バムルおねーさまが訊けばいいでしょ! 大人でしょ!」 「いやそれはコメテが……。バムルもう卒業しちゃうし、関係ないし……」 「そんなんじゃどこへ行ってもやってけないわ!」 「なっ!? 何目線なんだよ……!」  口を挟む隙がない。訊いてくれさえすれば答えるのに……。とタイミングを掴み損ねて口をぱくぱくしていると、奥からもう一人、とたとたと小走りで女の子が現れた。 「テウおねーさま!」小さい方が勢いよく振り返ると、リボンを巻いた垂れ耳(ロップイヤー)が頬の横で揺れ、フリフリしたヘッドドレスがずれて傾いた。 「こほん。……アリスちゃんだよね。ラヴァ島へ、ならびに聖ウサロ学園へようこそぅ。 私はテウ。聖ウサロ学園二年生。もうすぐ三年生。友達募集中だよ~」 「……はい、アリスです。初めまして」懐から封筒を取り出す。「来月からの新入生です。お世話になります」 「新一年生が一人、早めに来てくれるって聞いて、楽しみにしてたんだよ。よろしくね~?」  ぽわっとした笑顔の二年生に促され、ようやく名乗らせてもらえた。テウ先輩は私の目を覗き込むと、両手を広げて言った。 「そうそう、校内は土足だよ。上がって、上がって」  言われてみれば、確かに靴箱はどれも空っぽである。上履きは必要ないようだ。一見ぼんやりとしているようで、私がスリッパを探してうろたえていたことを見抜いてしまった。世話焼きなタイプだろうか。 「ありがとうございます、テウ先輩。では、お邪魔しま……」と、奥に進もうとしたところを、目線の高さにぬっと突き出た裸足に阻まれる。  ……裸足? 「アリス、いいわね? ここでは"先輩"なんて俗っぽい言葉は使わないの。テウ"おねーさま"よ」  そ、そんなルールがあるの? 当惑しつつ言い直す。 「……テウお姉さま」 「それと?」 「コメテお姉さま」 「……偉いわ!」  コメテさんは満足げに頷くと、バレエを意識したらしきY字バランスを崩して私に道を譲った。なぜ裸足で……。  毛量の多い立ち耳アップライトをきょろきょろさせ、苦笑しながら見守るテウさん。訝しむ私に、バムルさんが説明してくれる。 「コメテは今おしおき中でね。靴を没収されちゃってて……」 「没収……ですか?」想像していたよりも厳しい教育方針なのだろうか。ちょっと背筋が緊張する。 「筋金入りのいたずら小僧なんだよ。罠を仕掛けるのに凝っててさ。落とし穴とか、ワイヤートラップとか」 「危険猟法じゃないですか……」 「それを忘れて走り回るから、よく自分で引っかかってる」 「よく無事でいますね……」 「で、とうとう逃げ回れないようにと靴を。見ての通り、効き目はないみたいだけどね」  コメテさんは窓の雪に目を留めるなり、裸足のまま、短いしっぽを振りながら校庭へ飛び出して行った。この島で雪は珍しくないと聞いているが、彼女はいつもこんな調子なのだろうか。現一年生ならば来月から私の一つ上の先輩になるわけで……お手柔らかにお願いしたい。 【2】 「名前、アリス。出身地……南ラン島。十月二十三日うまれ。写真……ああ、写真通り可愛い。オッケーですね」  職員室で書類を渡し、先生(なんとシスターさんである!)に自室のカギを受け取った。話を聞くと、女子寮は校舎の中であるという。驚異の通学徒歩ゼロ分、つい寝坊が増えてしまいそう……。 「そうだ、制服を預かっていただいてますよね」 「ああ~……制服とブーツとスクールコート。ごめんなさいね、今日の便では届かなかったみたいね」 「分かりました。金曜日くらいでしょうか?」 「今朝発注したから、早ければ金曜の定期船で来るはずですわ」  け、今朝ですか……。スーと名乗ったこの先生は、若干頼りなく映った。とはいえ、私は入学の日付よりだいぶ早くに島へ来ることになってしまったのだから、寮に住ませてもらえただけでもありがたい。  テウさんとバムルさんに私の使う部屋まで案内してもらい、やっと荷物を下ろすことができた。室内は一段高くなっていて、狭い三和土たたきにローファーを脱ぎ捨て、……一歩歩いてからはっと気付いて外向きに整えた。  部屋の右半分、ルームメイトの領域がどうも混沌としているが、とりあえず見なかったことにする。散らかった生活空間というより、がらくたを詰め込むガレージのような有様で……ルームメイトは普段どこで生活しているのだろうか? 「じゃあね、バムルは知らない子の相手するの疲れたから……」  廊下に戻った私と入れ違いに、バムルさんはいそいそと自室へ去って行った。なんとなく目で追うと、各部屋に表札があることに気付く。バムルさんは一人暮らし(?)のようだが、基本的には各部屋に二人ずつ入居しているらしい。  南側の二部屋は、「01 フリーツ, アリス」「02 ヴァニ,コメテ」。北側にも二部屋あって、「03 バムル」「04 テウ,エメラ」と書かれている。  テウさんが4号室の部屋の中へ呼び掛けると、コートを羽織った女性が片手を挙げて応える。 「三年のエメラだ。ようこそ。あたしは短い付き合いだけど、まあ、皆をよろしく」  ショートヘアの綺麗な人だ。耳がぴんと立っていて、容姿からはどことなく直線的な雰囲気を感じた。学園指定のショートブーツがよく似合っている。  私が挨拶を述べると、テウさんは私に柔らかい笑顔を向けた。 「それじゃあ、エメラお姉さまもご一緒に。学園の敷地を案内するね~」 【3】 「そういえば、男の子の寮はどこにあるんですか?」 「男子は港町の方だよ」 「ああ、校外なんですね」  言われてみると、先ほどから校門の方へ向かう男子生徒とすれ違っている。すると校内に部屋を持つのは女子生徒だけなのか。 「学校から人が減ってから長年部屋が余っていたから、あたしの一つ上の代の先輩が嘆願したんだよ。学園ここは島の端だし、あの坂道を毎日上るのは骨が折れるし」 「改装は大工事だったな。グラフお姉さまはなんでもできる人だったねえ」テウさんは懐かしそうに微笑む。「"お姉さま"呼びを取り入れたのも、去年からなんだよね」 「強制されたんだよ。上の代のグラフって先輩が三年生になったとき、権力を振りかざしたんだ」呼ばれる方も呼ぶ方も恥ずかしくて悶えていたのを、最高学年の立場から嗜虐的に眺めていたという。エメラさんがその鋭い目付きで廊下の遠くを眺めた。  私の知らない過去の記憶に浸る二人を見て、なんだか寂しいような切ないような心地が少しだけ。卒業してしまうエメラさんはともかく、テウさんもきっと、私を加えて過ごすこれからの日常の端々に、ふと欠落して戻らない過去との差分を感じ取ってしまうのだと思うと、それはどうしようもないことなのだけど、悔しさにちくりと胸が痛んだ。  校舎の外周は幅一メートルほどがアスファルトで舗装されていて、降った雪は積もらず消えていく。電熱線が埋まっているのだろう。校庭を突っ切って、うさぎ小屋まで十メートル余りか。 「……この辺りにも落とし穴があったりするんですか?」 「あいつ、うさぎ小屋への道には掘らないよ」  二人がコメテさんに寛容なのは、彼女の罠が脅威ではないかららしい。テウさんも日常生活を狙われたことはないという。 「危ないからな。校舎から見えないところに何かを仕掛けたりはしない」  テウ・エメラ両お姉さまはうさぎ小屋の前で歩みを止めた。目線を向けると、二人は両手を組んで祈りを捧げていた。新しい世界に足を踏み出したことを実感しながら、私も倣って目を瞑る。  うさぎは彼女たちの信仰の中心にいる。私たち人類とそっくりな耳としっぽを持つから……という理由もあるのだろうが、より抽象的に、無垢さや平穏さ、美しさを象徴するものとして神聖視される動物なのである……と、知識としては知っている。私たちにとってうさぎは、目指すべき理想の姿だというのだ。 「それじゃあ、ちゃんと挨拶しないとね」  テウさんが入口を示す。二人が飼料(お食事と言うべき?)らしき大袋を運ぶ間に、私は中へ踏み込む。入口の扉を開けると狭い前室になっている──うさぎたちの脱走を防ぐための二重構造だろうか。二枚目の、コンクリート造りに金網の窓がある内開うちびらきの扉がとても重い……。かなりの力で押さなければびくともしなかった。扉の金網に背中を押し付けて体重をかけると、軋むような不愉快な音が響く。私は体勢を崩しながら、ようやく開かれた扉をくぐった。  小さなライトが室内を照らす。ケージがいくつか置かれていて、奥にはもう一つ、入口と同じような扉がある。外観よりも広く見えた。そして室内を埋め尽くすのは、真っ白なふわふわ……。 「はじめまして、今日から聖ウサロ学園にお邪魔するアリスです……、お世話になります」  気恥ずかしさを飲み込んで深々と一礼。うさぎに敬語を使う日が来るなんて……。コンクリートの床を跳ね回る無数のうさぎたちは、大半がこちらに興味なさげな様子。溌剌としていて毛艶もいい。大切にされているようだ。それに大きい。想像していたよりもかなりずっしりとしている。 「……私、無視されてませんか?」テウお姉さまの方を見る。 「それはねえ……きゃはっ……こら! ……ご飯で釣ればいいんだよ」  神聖なる"うさぎ様"にそんな言い方を!? 部屋に入るなり、テウお姉さまはあっという間にふわふわのうさぎたちに飲み込まれて、耳以外がすっぽり埋まってしまった。エメラさんがうさぎの首根っこを捕まえて、一匹一匹引きはがしていく。案外ぞんざいだ。 「その、なんて呼べばいいんですか? おウサ様?」 「別にそれでもいいけど、うさぎはうさぎだろ」エメラさんが答える。 「神聖で貴い存在なんです……よね?」 「そうだけど、アリスはたぶん年上だろ」  あまり疎外して扱うのもよくないのかもしれない。近くにいた一匹のしっぽを、おそるおそる突っついてみた。ロールパンのように小さなそれは作り物じみて見えるが、サイズを除けば私たちのしっぽと違いはない。  しゃがんでしばらく観察していると、一瞥もされない新入りを哀れんだのか、数匹が傍らへ寄ってきた。私の匂いを嗅いで、一様に首をかしげる……無表情のうさぎが、心なしか訝しむようなしかめっ面に見えてくる。やはり新入りに厳しいような……。こいつは首をかしげすぎじゃないか? 不信感を示すかのように、かなり無理のある角度から見つめてくる。あるいは威嚇されている……? うさぎにもてないことでどれくらい落ち込めばいいのか、まだよく分からなかった。 「ここが自慢の菜園。穀物以外はだいたい自給自足なんだよ」  校舎の裏側がちょっとした農場になっていた。畑の傍らには石碑がひとつ、ビニールハウスもいくつか建っている。 「自給自足って、ルールなんでしたっけ?」 「戒律じゃないよ。あくまで理想かな?」 「というか、多分に趣味だ」  菜園の方へ向けて再びお祈り。これから三年間、私はこの島の恵みに育てられることになるわけだ。 【4】  菜園を後にして校舎内に戻り、私たちは校舎の西側の廊下を歩いていた。 「そこがシャワールーム。こっちに家庭科室があって。私たちが、朝ごはんと、昼ごはんと、夕ごはんを食べるのもそこだよ」テウお姉さまが両手で示す。 「もしかして、朝と夜は自分たちで作るんですか?」 「そうだよう。今日はエメラお姉さまとフリーツちゃんが担当なんだけど……、今日はラボにこもりっぱなしみたいで……」  先ほどトランクを引きながら舗道を歩いていたとき、校門と校舎の中間ぐらいの位置で、木造のあばら屋を見かけた。ラボというのはあれのことだろうか。 「あとで呼びに行かないとな。開発も大詰めみたいだったが、アリスが来たとなれば飛んでくるはず。あれでも一生懸命片付けてたんだ、1号室」  発明家かなにかなのかな。私なんかつまらない人間で、そんなに期待されていると思うと緊張で空回ってしまう。サプライズみたいなのもやめてほしい……。  教室を一通り見て回ってから玄関まで引き返し、今度は北校舎へ行ってみることにする。  廊下の突き当たりで一度屋外に出て、コンクリート敷きの路で北校舎に渡る。冷たい! 雪はすでにうっすら積もっていて、左右から吹き付ける風に思わず身を縮める。 「ここは夜間になるとシャッターが降りる。通れなくなるから気を付けて……、おや」  北校舎の中に踏み込むと、垂れ耳の女の子が目に入った。白いカーディガンで着ぶくれている。項垂うなだれたままこちらには気付かず、廊下の真ん中をうろうろと行ったり来たりしている……なんとなく声をかけにくくて立ちすくんでしまう。二年のヴァニだ、と囁いて、エメラさんはすたすたと歩み出た。 「ああ、エメラお姉様。と、テウお姉様。……それに、……」 「アリスといいます。今日来たばかりです、……お世話になります」 「アリスちゃんですか。私はヴァニです、地道に生徒やってます」  地道にって。 「……バイブルは持っていますか」 「はい一応。まだ、きちんと読めてはいないですけど」  有名なエピソードだけは拾って読んだ。清く美しく生きた人間が天使となって、戦乱や天変地異のさなかで奇蹟をもたらす類いのあれこれを。 「ちまたでは、抽象的で極端な逸話ばかりが取り沙汰されます。あんな架空の物語を額面通りに受け取っていては、天使は遠いです」  まさしく図星ずぼし……。口に出さなくてよかった。  私たちの持つ本によれば、天使は永遠を与えられた人間である。この解釈は本土でもさして少数派ではないし、うちの近所の教会も同じ立場をとっていたはずだが……、あなたは天使になれる、なんて言われても、どうもぴんと来ない。 「ヴァニお姉さまは、本の物語を信じていないんですか?」 「少なくとも、私達が参考にすべき箇所は、作りものめいた奇蹟譚じゃないのです。先人が日々どう暮らし、何を考えていたのか。何を課題として残したか。一見平板なチャプターこそ、取り零してはならない、私たちと地続きのものを伝えているです」  幼いながら(……と、後輩の私ですら言いたくなってしまう雰囲気がある)、まじめで熱心な子だ。彼女もうさぎ小屋に行っていたのか、スカートに干し草が付いていた。 「……というのが、ヴァニちゃんの考えだけどね」  テウさんが和やかに微笑むと、演説を終えたヴァニさんは照れたように耳を揺らした。「アリスちゃんも頑張ってください。地道に応援しています」  ところで、とエメラさんが口を開く。 「アリスに学園を見せて回ってたところなんだ。ヴァニはこんなとこで何を?」 「床材のひび割れを辿りながら、もの思いに耽っていたです」  かなり近寄りがたい雰囲気を発していたけれど……、それなら少し共感できる気もした。「なんか分かります。正方形のタイルを、桂馬跳びで踏んでいったりとか」 「そういうのです。雑念を排したかったです」 「横断歩道の白い部分だけを渡ったりとか?」 「…………」  ……あれ? 「………………横断……歩道、って、どんなのです」  し、しまった……。いけ好かない余所者だと思われただろうか。私の育った本土の当たり前が通じない、もっと予習してくるべきだったか……。 「ヴァニ、もし暇なら、四人で歩いて回らないか?」 「申し訳ないのですが、夜ごはんまで一人にしておいてほしいです」独り言のように、「今日は私なのです」  その言葉を聞いて、テウさんは小さく息を飲んだ、ように私には見えた。エメラさんは少し真剣な顔をして、ヴァニさんに目線を合わせた。 「ヴァニ、もし気分が悪いなら、今週はあたしが代わってもいいが」 「……手伝ってあげることはできないけど、明日だっていいし、いっそまた今度、できると思ったいつかでもいいんだよ?」  ヴァニお姉さまは顔を曇らせたまま呟いた。「いえ、決まりは守らないとです。忘れてください。ちょっと考えごとがしたかっただけです」  私がエメラお姉さまに困惑の視線を向けると、彼女は声を出さずに囁いた──"とうばん"──当番?  事情が飲み込めないまま、二人の後について、振り返らずにその場を去った。 「さて。だいたい見て回ったことだし、一度部屋に戻るか」 「よかったら荷ほどきも手伝うよ~」  南の本校舎に戻り、寮の部屋で一息つこうと来た道を戻っていたそのとき。瞬間、窓の外で閃光が瞬き、次いで怪獣映画のSEみたいな轟音。何が起きた!? 窓ガラスがびりびりと鳴る。  目を回してたたらを踏むテウさんを受け止め、エメラさんが呟く。「フリーツのラボが爆発したんだ……ずいぶん久し振りじゃないか? またドアを吹っ飛ばしたかな」  たまにああして爆発するらしい……まるで漫画だ。  フリーツさんの安否を確かめるべく廊下を進んでいると、階段の上から忙しない足音とともに怒鳴り声が響いてきた。「コメテさああぁぁぁん!!!!観念しなさーーーいっ!!!!!」  階段を転がり降りてきたスー先生を、私たちはすんでのところで回避した。 「……コメテ……お姉さま、が? 何かしたんですか?」 「あらアリスさん。何かしたか、ですって? もう! 本当ほんとにもう!  悪いコメテ、宿直室のドアにトリモチを仕掛けたんですよ!」 「禁止猟法じゃないですか……」  いたずらに対する尋常ならぬコメテさんの情熱。いったいどこから来るんだろう。 「まだ探してないのは……そこねっ!!!!」  叫び声で空気が震える。先生は下り階段を指さした。そういえばここは一階なのに、下りの階段があるのだった。小声でエメラさんに尋ねる。「地下があるんですか?」 「小さい地下倉庫室に直接繋がってるだけ」 「あのう、シスター・スー、さっきフリーツちゃんのラボが……」 「はい、はい、後で聞きます。コメテさん~!!!」  ずかずかと階段を降りていく先生の後を追い、倉庫の扉の前に並んだ一同。先生がドアノブを勢いよく引くと、「きゃあっ!?」情けない声を上げ、手足をばたつかせながらコメテ……お姉さまが背中から倒れ込んできた。 「ふぁあ……。……げっ、先生」窓のない暗い部屋だ。どうやら扉に寄り掛かってうとうとしていたらしい彼女は、一気に眠気が覚めた様子で目を丸くした。「……と、おねーさまたちと、アリスまで」 「コメテさん。宿直室の件でお話しがあります」 「な、なんのことかしら……」 「あの罠を仕掛けたのはあなたでしょう」 「知らないわ! トリモチなんて私……あっ」  んなベタな。犯人しか知らない情報を口走るコメテさん。 「さ、さてはアリス! あなたが密告したのね! ひどいわ! スポーツマンシップに反するわ!!」 「誤解です、コメテお姉さま」私に何の得があって。 「床が温まっている……、コメテさん、あなたはずいぶん長時間ここに隠れていたようですね? 私が駆けずり回って探していた間……」 「へ、変態! わたしがどこに座ろうと自由でしょう! それに走ってたのだってあなたの勝手だわ! そうね、痩せたいという意志がそうさせたのよ!」 「なんですって……!?」  スー先生が大声で叱り、コメテさんは顔を赤くして言い返す。慣れた様子のエメラさんはテウさんと視線を交わし、「シスター・スー。今日の夕食は普段より早く始めるんで、きっちり遅れず来てくださいね」と釘を刺す。……ということはコメテさんは夕食まで解放されないのだろうか。長そうだな。同情はできないが……。  ひとりでに扉が閉まると、先生とコメテお姉さまの苛烈極まる言い争いは地下倉庫に閉じ込められ、辺りには気まずい静寂が残された。 「そうだ、フリーツの様子を見ておかないと」  エメラさんが仕切り直し、私たち三人は踵を返して階段を上った。 【5】  玄関から外に出る。校舎の周りのコンクリートは加熱されているらしく、舞い降りた雪は積もらずに融解していく。一方、辺りにはすでに靴底が隠れるくらいまで積もっていて、傾いた日を反射してきらきらと眩(まばゆ)い。 「ラボって……あれですよね」  私たちがいる屋根付きの舗道から、南側に建つあばら屋まで、雪がきれいに押し退けられて道ができている。二点の間を、ラジコンカーのような機械がどこか誇らしげに往復している。だが、私が確信を持った理由はそれだけではなく……「ロボット除雪車? のさきの、……黒煙こくえんを吐いている建物ですよね」 「い、いつもモクモクしてるわけじゃないよ……」  テウさんがちょっとずれた弁護をしてくれたが、第一印象は廃屋……ポジティブにいえば秘密基地といったところだろうか。同年代の女の子が生活空間にしているような気配は微塵もない。ノックしてドアに手をかけると……ドアノブがすっぽ抜けた。続けてぼろぼろ落ちるラッチや鍵の機構……。室内は煤けて焦げ臭い。 「フリーツー! 無事かー?」エメラさんがラボへ数歩踏み込むと、「ぐえ」と足元から要救助者のうめき声が。  横倒しの本棚を三人でどけると、本の山の下から髪の長い女の子がむくりと起き上がる。 「けほっ……。かたじけない、助かったのじゃ」  のじゃ……? 「お主が新入りのアリスか」私が拾い上げたメガネを手渡すと、フリーツお姉さまはレンズを袖で拭って顔の前にかざした。 「いい目をしているな」  いきなりなんですか……。 「私はフリーツ。新二年じゃ。発明王と呼ばれておる。歓迎しよう。この出会いに感謝しよう」身体をはたきながらゆらりと立ち上がる。 「さて、お主……弟子になる気はないか?」  え、ええと……。いろいろ不思議な子と同部屋になってしまったな。 「あの、大丈夫なんですか? 私たち、さっきの爆発音を聞いて……」 「うむ、なんともない」動くたびに耳の上に載っていた灰や埃が再び頭に降り落ちて、フリーツさんは激しくくしゃみをする。枝毛だらけの腰まである髪が重そうに揺れた。  いやしかし、建物もぼろぼろではないか。私が傷んだ壁面を指差すと、「それは元々じゃ」と平気そうに答える。 「建て直すなら、私たちも手伝いたいんだけど……」テウさんが苦笑いを浮かべる。 「この方が箔が付くからの」  フリーツさんは四つん這いでラボから這い出すと、一応建物の外観を検めた。窓は施錠されてカーテンで閉ざされ、鍵の壊れたドアも外側から見るかぎりなんともない。ただ自爆しただけで、事件性はない……のかな。 「外はいつも通りじゃな。黒煙もじき消えるじゃろう。私は無事といえば無事だが……室内はごちゃってしまったの」  こちらは元々じゃないのか、と見回すと、確かに金属部品は飛び散り、ガラス器具は割れ、図面が舞い……普通に散らかしてこうはならないか。 「ちょっと手伝うか。テウ、そこのほうきをくれ」 「はいどうぞ。じゃあ、私は本棚かな」  両お姉さまがてきぱきと始末を始める。私も何か手伝おうと、近くに落ちていたブーツを拾い上げた。 「これは……玄関ですか?」 「ああ、それは発明品なのじゃ。入り口の脇の展示棚に……」  学園の指定靴に、金属管やカラフルな導線が巻き付いたような見た目をしている。フリーツさんの指定靴は彼女自身が身に付けていた。 「"枯山シューズ"、だっけ。去年作ったんだよね?」 「さようじゃ、破門三部作トリロジーの一つじゃな」  テウお姉さま、こんなわけのわからない発明品の名前をわざわざ暗唱してあげているのか。 「何に使うんですか?」 「足跡を増やさずに来た道を戻れる」  何のために……? 「だから、枯山水を作れるんだとさ」  困惑する私に、エメラさんがほうきで床を撫でながら言う。 「三部作、憧れだったのじゃ。他にもタイトルだけ決まっていて未完成の作品は累々山積みじゃが……」  フリーツさんはメガネを光らせて、デビューを夢見る作家志望者みたいなことを言う。 「だから、棚の二番目のあそこに戻すのじゃ。ラベルがあるじゃろ。"十六連打できる木魚"と"五十度くらいで融ける蝋燭"の間じゃ」 「もうお寺の子になっちゃえば……」 「滅多なことを申すな。これはビジネスじゃ。マーケティングじゃ」  フリーツお姉さまが目指すオーシャンは何色なんだろうか……。  今日は夕食の準備があるといい、エメラさんは謝りながら校舎へ戻っていった。残された三人で片付けを進めるも、長らく整頓されていなかったのだろう、がらくたの量が多くてはかどらなかった。 「フリーツちゃん。今度、垂れ耳の子用のイヤーマフも造ってあげてくれないかなぁ」 「私は便利屋じゃないと言っておろうが……。しかし実を言えば、まさに今日取り組んでいたのがそれなのじゃ。暖房機能に加えて、防風機能や電流マッサージ機能を実装しようとしたのじゃが」  爆発しうる耳当てはちょっと着けにくいけど……。 「立ち耳用のマイナーチェンジで済ませるつもりじゃったが、思いがけず排熱の問題が見つかったのじゃ。まあ、耳の形は生来のものであって、骨を断って組み直してもらうわけにもいかぬからの」  冬の寒さはまだまだ厳しくなる。フリーツさんは友達の期待に応えたくて、開発を急いだのかもしれないな。私が尊敬の眼差しを注ぐと、フリーツさんは真面目な顔で言った。 「弟子、お主も使いたいか。月に三九八〇じゃが」  それだけが理由でもないだろうが、立ち耳用を先に開発したのは、立ち耳の方が多数派であるこの地方で、たっぷり稼ぐためなのでは……?  この学園の女子生徒は私を加えて七人だそうで……、確かに、垂れ耳の子が一人少ないのか。  金属片などの危険物を処分し、物を踏まずに歩ける程度まで整理したところで、校舎のスピーカーからチャイムが聞こえてきた。夕食の約束の時間である。  フリーツさんは汚れをはたき落とし、一応「いつも通り」に身なりを整えた。煙はとっくに消えていたので「火の元よし」、「盗まれるようなものなどない」ということで施錠はあきらめ、内側の焦げたドアを閉じて(土地の傾きのせいか、ひとりでに開かないのは幸いだ)校舎へ向かった。  玄関の方を見ると、守衛らしき人物が外側から校門を施錠して去って行くところだった。男子生徒はとっくに全員帰宅したのだろう。あたりは足跡一つない銀世界に変わっていた。 【6】  18:30。 「もうバムルさんとエメラさんが立派に卒業するというのに、コメテさん、あなたは……」 「も、もうその話はいいじゃん!一時間半も正座で聞いてあげたのよ!?」足元のおぼつかないスー先生を、コメテさんが引っ張って現れる。どうして先生の方が痺れているんだろう……。  私たちは家庭科室に集まり、食卓代わりの机を囲んでいた。私と、フリーツ、テウ、バムルお姉さま。奥の作業台から鍋を運んできたヴァニ、エメラお姉さま。そこに少し遅れてきたコメテお姉さまとシスター・スーが着席し、夕食の席に全員が揃った。聖ウサロ学園の敷地に、いま存在する全員が。  夕食会は、私の入学の前祝いということで、歓迎されるこちらがこそばゆいほど豪勢に行われている。メインディッシュは菜園の野菜をたっぷり使った豆乳のシチューで、私の器には肉がひとかけらも入っていなかったようだが、それでも窓の雪を眺めながら温かい家庭料理を囲うのは心が洗われるようだった。新鮮なサラダは生野菜とは思えないほどに食べやすく、しっとりとしたクルミのパンは数え切れないくらい沢山つまんでしまった。保存食らしきチーズや缶詰めは……若干場違いだったが、濃い味付けに食欲をそそられる。さらにはとっておきのデザート、見たこともない南国のフルーツが振る舞われ、おそるおそる口に運んだ私は即座に虜になってしまった。 「わたしのときはこんなに豪華じゃなかったわ」コメテさんがちょっと嫌味っぽく言った。「島の外からの輸入品は穀物とスパイスくらいのものだったのに、こんな珍味まで仕入れちゃって」  このちくちくした果物は、バムルさんが通販で取り寄せたものらしい。 「それはさ、フリーツとコメテのときは二人とも諸島育ちだったじゃんか」 「ならなおさら変わりダネをご馳走になりたかったわ?」 「いやあ、要するに、本土育ちの子供にナメられたくなかったのさ」  ナメるだなんてそんな。バムルさんにとってすでに私は初対面でなくなったのだろうか、本音を隠そうともしなくなってしまった。「正直、本土育ちは少し羨ましいのじゃ」フリーツさんが腕を組む。 「羨ましい……ですか?」 「私はじじばばばかりの小島で育ったからの。言葉がこうなってしまった」  少子高齢化の影響だったんですか!? 「本土といえば、ヴァニおねーさまは一回も本土に行ったことがないのよね?」コメテさんの矛先はヴァニさんに向いた。 「……別に行きたいとも思わないです。必要があれば行きます」  俯いていたヴァニさんが、ワンテンポ遅れて、つまらなそうに応戦する。 「じゃあ今度私が連れてってあげるわ! 来週末にでもどう? 行きたい教会がいっぱいあって……」 「ありがとうございます。お気持ちだけで充分嬉しいです」 「かわいそうに、外の世界が怖いのね。だからヴァニおねーさまはいつまでも地味なのよ」 「地道です。まったく、早くコメテちゃんのフラストレーションをなんとかしないと、いずれこの島は落とし穴だらけになって地図から消えるのです」  ルームメイト同士、やっぱり遠慮がなくなるものなのだろうか。いなし方も堂に入っている。 「引きこもり気味のフリーツも着いてきていいわよ?」 「結構なのじゃ。靴くらい履いて出直してこい」  同学年のフリーツお姉さまにも冷たくあしらわれ……というか、まだ靴を没収されているのか。フリーツさんの最大の弱みは今日の爆発事故だろうけど、気を遣ったのか誰ひとり言及しなかった。 「アリスちゃんは、本土のどこから来たんだっけ」 「ミヤミの内陸です。生まれはこの近くの南ラン島で、親の都合で本土に渡って。また親の都合で諸島に戻ってきたので、この学園に入りました」  テウさんが水を向けてくれたので、私は簡単に自己紹介をした。ここカラビ諸島に学校は少なく、この全寮制の聖ウサロ学園に進学して、義務教育を修了する子どもも多い。生徒数は二十人くらい……近年はずっとそれくらいの人数を保っているそうだ。  週末は船で帰省できるので独り立ちというほどのことでもないし、まだ洗礼を受けていなかったので、宗派の問題もなかった。 「南ラン島は、その、あの、海が綺麗だよね」  バムルさんがやや間の悪い相槌を打つ。海はこの島と同じはずで……。 「海といえば、南ラン島にはマニアに知られる秘密の釣り場がありますのよ。もちろん誘いませんけれど」  シスター・スーがフォローする。あれ? たしか食べ物自体を制限する戒律はなかったはずだけど……、「釣りって、その……いいんでしたっけ」  自信なさげに聞こえたのだろうか、目が合ったバムルさんが丁寧に正してくれる。 「決まりごとは有名なあれだけだよ、"命を狩るのに四つの耳を使ってはならない"……、つまり、二人以上で寄ってたかって動物を殺すのは人道に悖(もと)るってやつさ……一人ならやむを得ず」 「漁船に乗るときはね、全員がほんを持ち込むのよ」コメテさんがサラダを分別しながら言う。「船長さん以外の全員よ。ね、なぜか分かる?」挑むように私の目を見る。「バイブルじゃなくて普通のほんよ」 答えに窮していると、俯いていたヴァニさんが目線を上げないまま種を明かす。「狩漁に同行することの口実です。つまり、読書のために海に出ただけで、誰も船長の手伝いはしなかったということです」  らないふりをすれば体裁ていさいたもたれるということか。ヴァニさんが黙ってしまうと、ちょっと居心地の悪い空気が流れた。  私がどう返答しようかとまごついていたら、「アリスちゃん。笑っていいところだよ」とテウさんの助け船。耐えかねたスー先生から笑いが起きて、私は内心胸をなで下ろした。 【7】  20:00。  食事会がお開きになったあと部屋に戻った私のもとに、フリーツ・コメテの一年生お姉さま二人が現れた。 「フリーツ? あなたこれで本当に片付けたの?」 「……だって、長らく物置にしていた部屋なのじゃ。弟子が来ると聞いてから、半分片付けるだけで重労働だったのじゃ」 「あの、弟子になるつもりはありません」  今までラボに住んでいたというフリーツさん。今後もあそこで暮らすのだろうか? 「フリーツ、まさか今夜もボロ屋に戻ったりしないわね?」 「えっ? ……でもここには着替えも置いてないし、ベッドもこの有様なのじゃ」机にもベッドにも何かの機器が積まれ、針金が飛び出したりオイルが染みたりしている。私のベッドはさすがにがらくた置き場にはされていなかったらしく、綺麗に整えられている。 「じゃあアリス、貸してあげなさいよ」と突然命じられた私は、しかしなぜだか悪い気もせず、「……もし今日の分だけでしたら、タオルとパジャマなら多めにあります。私のでよければ」 「しかし……ベッドが」 「まだ使っていませんから、嫌でなければここを使ってください」  私は腰掛けたベッドを示す。  あまりに外が寒そうだったのだ。きっとフリーツさんも、一度外に出てラボまで向かうのが億劫だから、コメテさんに付き合って遊びに来てくれたのだ。 「では……お言葉に甘えるかの……」  口調が弱々しい。まだ八時前だというのに、もう今にも眠ってしまいそうだ。倒れ込もうとするフリーツさんを受け止めてメガネを外させる。分厚い丸メガネで、反対側はぼやけて私にはまったく見えない。 「まったく世話が焼けるわ。私のおばーちゃんの方がずっと若いわ」  二人でフリーツさんを支え、施錠して部屋を出る。コメテさんが途中で同部屋のヴァニさんを誘い、協力して着替えやタオルや歯磨きセットを抱え、四人で一階のシャワールームへ。ドアを開けるとなかなか立派な脱衣所になっていて、ありがたいことに新品の歯ブラシも備え付けられていた。 「そういえば、鏡はここにしかないから、姿見か何か注文するといいわよ」 「九時に施錠されて朝七時まで開かないです。手鏡があるので、もし必要なら部屋に来るです。……フリーツちゃんもそろそろ面倒がらずに買うといいです。  ちなみに水道なら、校内の水飲み場を好きに使ってよいです」  アドバイスをしながら、二人はするすると制服を脱いでいく。他人の前で裸になるのは少し抵抗があったものの、二人が寝ぼけるフリーツお姉さまを手早くすっぽんぽんにひん剥いてしまったため、私も慌てて服を脱いで奥の扉をくぐった。 【8】  20:45。 「だからね、本土の温泉リゾートを見せてあげたい……島から連れ出さないことには始まらないわね」 「船は揺れるから二度と乗らないのです」 「じゃあおねーさまは卒業したあとどうやって島を出るのよ、プロペラ機すらない島なのに」 「論外です。身長より高いところも断固拒否なのです」 「おねーさまはもうこの島から出られないのね……」  フリーツさんに私の予備のパジャマを着せていると(親に持たされた中では一番、手が込んでいてかわいい服だ。リボンとフリルがたっぷり付いたシャツなのだが、私にはとても似合わない)、シャワーを終えた二人が軽口を叩きながらぺたぺたと出てきた。……と、反対側にある入口の扉から、小走りのテウさんが歯ブラシセットを抱えて現れる。 「みんな、シャワーは終わったみたいだね。歯磨きが終わったら施錠してもらうからね」  世話焼きが板に付いている様子のテウお姉さま。まさか自身が歯磨きを後回しにしていたのも、タイミングを合わせることで、私たちを急かさないためだろうか。それは考えすぎだとしても、初日から迷惑をかけるわけにはいかない。少しだけ焦ってフリーツさんの襟周りのリボンを結ぶと……手順を間違えて、長さも向きもちぐはぐな結び方になってしまった。まあ寝巻きだし、本人にすら見えない位置なのだから構わないか……。 「まるで本当の妹になった気分でしょう?」コメテさんがテウお姉さまを指して、いたずらっぽく私に囁いた。 「えっと……、今日もお世話になりましたし、優しい方だなと思います」 「あれでいて一人っ子なのよ。"お姉さまの才能"があったのね」  なんだそれは。確かに、年下のきょうだいがいると言われてもしっくりくる人ではある。 ……でも、たった二年間(または一年間だ)しか一緒にいられない人をそんな風に呼んで慕うのは、後がつらいんじゃないかと私は思ってしまう。 「……あの、コメテお姉さま」 「なあにアリス」 ふと訊いてみたくなった。「天使って、なんでしょうか?」 「天使は永遠よ。……うさぎ、でもあるらしいわ」 「ううん……」  永遠とは何ぞや、と問えば、即(すなわ)ち天使なり、と返されそうだ。 「そうね……、天使は永遠を疑わないんじゃないかしら」 「疑わない?」 「永遠を体現する、とも書いてたわね……」  そのものになる、と言いたいのだろうか? なんだか堂々巡りだ……。 「アリス、ちゃんと考えてる? 天使の世界は天使の世界なのだから、天使でないものはいないでしょう?」  そ、そうなのかな。ちょっと私には早いかも。 「結局、何が永遠なんですか?」 「もちろん、きらきらと輝くものの永遠よ!」  輝くもの……。分からない。何か、本来永遠じゃないものだろうか。 「……つまり?」 「分からないけど、きっと楽しいもののことよ」  メガネがほしいとうめくフリーツさんの歯磨きを手伝い、五人は九時ちょうどに脱衣所を出た。ちょうどやってきたシスター・スーに声を掛け、施錠を頼む。明日の午後までは閉めておくらしい。 【9】  21:30。  学校中の電気が落ちた。ヴァニさんやコメテさんに「おやすみ」を言ってから二十分ほど。消灯時刻が訪れたのだ。朝になるまで電灯は点かないそうで、静けさと暗さに心細くなる。  やがて、部屋のドアの鍵が外側から回され、今夜二回目のトイレからフリーツさんが戻ってきた。 「いやぁ……、本当にすまないのじゃ。トイレが近くての」  心から申し訳なさそうに、靴を脱いでベッドに潜り込んでくる。 「気にしないでください。……体調がよくないんですか?」 「体調はいつも通り……。キレなのじゃ。終わったのか終わってないのか判断できないのじゃ」  かわいそう。私のお婆ちゃんも同じことを言っていた。かなり長かったけれど、そういう事情ならば同情してしまう。  22:00。  隣で寝ていたはずのフリーツお姉さまがいつの間にか消えていた。ブーツがない。きっとまたトイレに行ったのだろう。私もトイレの場所を確認しておこうと思い立ち、身体を起こす。やや面倒だが決まりに従って、出るときに部屋のドアを施錠した。  目が慣れてから見る廊下は、思ったよりも明るかった。窓の外では、うさぎの模様がはっきり見えそうなくらいに大きな月が高く上って、雪雲の隙間で輝いている。今夜はじき晴れそうだ。  寮として使われているエリアを抜けたところで、突然……「アリス」……暗がりから名前を呼ばれ、私は身がすくんでしまった。 「……バムルお姉さま、エメラお姉さま。わ、私はトイレを見ようかなとか、行こうかなとか」  どきどきして口が回らない私に、バムルさんは悪戯っぽく笑みを投げかけた。「アリスも一緒に飲まない?」「えっ」「美味しいココア。懸賞で当てたやつがまだ、三人分だけあるの」頷くエメラさん。  二人は南に伸びる廊下の先、西に張り出したラウンジを示す。机とソファが置かれていて、夜空を見ながら一服するにはぴったりのスペースだ。廊下のあちら側からは見えなかったので、こんな場所があったのかと驚く。反対に、こちら側から見えるのも、向かいの図書室のドアくらいだ。ドアの窓から透けて見える本棚の森林が無性に恐ろしく見える。 「北校舎の一階に給湯室があるの。ココアとカップもそこ。夜はシャッターが降りてて一階の渡り廊下は使えないから、宿直室の前を通らないとだけどね……」  何気なく窓の外を眺めると、降る雪がだんだんと疎らになり、やがて完全に降り止んだ。 「あたしが行く。もし捕まったら合図を出すから、すぐに部屋へ逃げろ」  悲壮感漂う声色をわざとらしく作ってエメラさんが宣言する。この人は真面目な人だと思っていたのに……。私たち二人はその後ろ姿を適当に見送ると、ソファに腰を沈めた。 「ココアがさ、八本入りでさ。私たちとアリス以外は全員飲んじゃったのよね」  シスターも含めて八人か。シスターもレアものには目がないらしく、バムルさんが当てた高級ココアに感激していたそうだ。 「でもフリーツが言うには、なんかすごい苦いらしくて。バムルの分はココア粉二割減、角砂糖三つ半で注文したよ」  エメラさんは今、溶け残るほどの砂糖を高級ココアに放り込まされているのか。バムルさんは苦手な景品でもとりあえず狙うスタンスらしい。 「いろいろ買ってポイント貯めて、すんごい高倍率を仕留めたっていうのに、あれだよ。"送料無料、ただし離島は有料"だよ。ムカつくよね……」  離島の通販マニアの嘆きに、私は神妙に頷いてみせる。他人事ではない。私だってお揃いの制服や靴が届くのは次の定期船までお預けなのだから。そんな生活が当分続くのだから……。 「……そういえば、この学園ってかなり古いんでしたっけ」  エメラさんがなかなか帰ってこないせいで、私は話の種を新しく考えなければならなかった。  窓の高いところから夜空が見える。しかし下の方のガラスは曇っていて、目線の高さからは外が見えないのだ。結露しているのかと思いきや、近付いて見ると細かい傷や経年劣化で白く不透明になっているようだった。 「そうだね、建ったのはけっこう昔らしいよ。校長の方が年下かもね。かつては教室も余ってなかったんだろうし……」  かなり年季が入っている一方、隅々まで清潔に保たれているとも感じる。今までここで過ごしてきた人たち、訪れて去っていった人たち皆が、大切に手入れしながら使っていたのだろう。 「あっ、遅いよエメラ……。捕まったかと思った」  湯気の立つカップを三つ抱えて、エメラさんがラウンジへ帰ってきた。 「悪い。ココアが見付からなかった」北校舎も電気が点けられないそうだ。 「え? じゃ、じゃあこれは?」 「なかなか見付からなかったって意味」 「ああ、なかなかって意味ね。……じゃあ、乾杯……。……あ、もう飲んでいいよ」  バムルさんはいちいち噛み合わない。  ココアはやはり少しだけ苦くて、けれどうっとりするような香ばしい匂いがした。 「"お姉さま"呼びを始めたのもグラフお姉さま……あたしの一つ上の先輩だ 」 「ある日突然だったよ。"命令。明日から手前たちは、"お姉さま"呼びを徹底するのだ。形から入るのが大事ゆえ~"とか言ってさ」  バムルさんの物真似に、エメラさんがくすくす笑う。本人を知らない私には、似ているのかどうか分かりかねる。黙っているのが少し気まずくて、まだ熱いココアを少しだけすする。 「あっという間だ。懐かしいな。あたしとバムルとグラフお姉さまとで星座みたいに思ってたんだ」 「星座?」 「そう。ずっと同じ形のまま空を滑っていって、そして……」  私はラヴァ島の夜空を仰ぐ。上った月は眩く、特別明るい星がぽつぽつと見えるばかりだ。ゆっくり回っていく天球の星々。その動きを見定めようとして、私は空を睨んだ。……じっと眺めていても動きそうにない。 「えっと……? 三人の星座が同じってこと?」  バムルさんは自信なさげに、垂れ耳の陰からエメラさんの方を窺っている。あなたって人は……。 「誕生日はばらばらだろ。グラフお姉さまは秋生まれだし、あたしは十二月、バムルは四月だろ」エメラさんは諦めたように言った。 「そうか。……そうだっけ。秋生まれが多いって話は?」 「二年生、フリーツとコメテが揃って九月二十三日」  月が綺麗なころだ、とまず思い、この少人数のクラスで誕生日が重なる確率はどれくらいだろう、とぼんやり考えた。 「……そういえば、あそこの上り階段はどこに繋がってるんですか?」  二人が黙ってしまったのが気まずくて、私は話題を探した。学校を案内してもらったときのことを思い返したのだ。  ラウンジを出て廊下を北に行ったところの右手に階段があって、一階へ下りる階段の隣に上り階段もあるのだ。校舎は二階建てのはずだから、屋上に出られるのではないか。 「あー、屋上には出れないよ」バムルさんが言う。「もしかして天体観測がしたくなった? やるとしたら校庭かな……行く?」 「あ、いえ」私は断る。「そこまでは悪いです」離れ島の澄んだ夜空を、ふと屋根の上に出て眺めたりできるのなら、ちょっとロマンチックなのになと思った。 「……来月にはお別れだね」バムルさんがぽつりと言った。 「分かり切ったことを言うな」 「本当に分かってる? 外には危険がいっぱいだよ……なんて」  そうだろうか。私にとってはこの学園の方がある意味スリリングに思える。 「それに、諸々(もろもろ)すっぱり精算した方がいいんじゃない?」 「は?」 「テウ、もう一人じゃ寝付けないって言ってたよ」 「うっ!? ……お前、新入生の前だぞ」 「今も眠れないままエメラお姉さまの帰りを待ってるんじゃない? 手を繋いであげてないと駄目なんでしょ」 「知らん。……縫いぐるみでも買ってやるか」  テウさんとエメラさんの4号室を覗いたとき、ベッドがくっついて並んでいた。生まれながらの癒し系っぽい雰囲気のテウさんにも、誰かに寄り掛かっていたい時間があるのだろうか。  私をよそに盛り上がる二人を眺めながら、空のカップを口元に運んで時間を潰した。  他の二人がようやくココアを飲み干す。 「あ、証拠隠滅はバムルがしておくよ」  バムルさんが腰を上げ、やや危うげな手付きで三人分のカップをカップを持って立ち上がった。  バムルさんの足音が廊下の向こうに消えていくまで、私とエメラお姉さまは一言も発さずに雪の止んだ夜空を眺めていた。お姉さまは黙っているのが苦にならない人間──というより、静寂を心地よく受け入れられる人間のようだった。  私は今まで経験してきたさまざまなお別れを思い出した。けれどもエメラさんの姿はそのどれにも重ならなかった。一度学園の外の世界に出てしまったら、どこを探してももう二度と彼女に会えないのではないか……そんな錯覚を抱いてしまう。事実、彼女の過ごした三年間に、私は存在しなかったのだ。私たちが彼女を忘れるよりずっと早く、彼女の中から私は霞んで消えてしまうだろう。 「ちょっとエメラ。ココアのスティックは部屋のゴミ箱に捨てなきゃ駄目だよ……先生は目ざといんだから」  三分足らずほどで、バムルさんがスティックココアの袋を三本持って戻ってきた。気が回る……まさに証拠隠滅だ。 「じゃ、じゃあ、ありがとうございました。美味しかったです」 「悪いことさせちゃってゴメンね。おやすみ」 「おやすみなさい」伸びをしながら歩き、寮の部屋へ……「あっ」  3号室のドアをくぐったバムルさんが小さく悲鳴を上げた。同時に、パサッと粉がこぼれるような音。足元の暗闇に目を凝らすと、どうやらバムルさんは、手に持っていたココアの粉末を部屋の入り口にばら撒いてしまったようである。 「ま、まずい……夜会の証拠が残っちゃう」  ちょうど靴を脱いだあとだったらしく、靴とそのあたりの床の上に黒い粉がまぶされていた。バムルさんは片付けをひとまず朝まで保留し、私たちはそれぞれの寝床へ戻っていった。小声で「おやすみなさい」を告げて部屋に帰ると、いつの間にか戻ってたフリーツさんが、丸まったままちらりと私を見た。差し出された毛布の端を少しだけ借りて、私は眠りに就く。 【10】  朝の空気は冷え切っていて、起き上がるのがつらかった。……いや、肌寒いのはフリーツさんが掛け布団を巻き取ってしまったせいなのだが。いつの間にか床に滑り落ちていたフリーツさんをベッドに座らせ、洗顔の準備をしていたところで、ドアがノックされる。「もしよかったら、お散歩に行かない? って思って~」  校舎の周りを歩いてうさぎ小屋に挨拶するのがテウさんの日課のようで、普段は朝に強いフリーツさんを誘っているそう。しかし目をこすり大あくびをする様子を見て、すぐにフリーツさんを諦めた。ひどい格好だ。パジャマは胸までめくれ返り、首のリボンは不格好に結ばれている──もっとも、このにせ蝶々結びは昨夜の私がこしらえたものだったが。  フリーツさんを置いて廊下に出ると、バムルさんの部屋から目覚ましのアラームが聞こえてきた。テウさんが部屋をノックして呼び掛け、しばらくして音が止まりドアが開く。「悪いね、おはよう……。早起きしてコレを隠滅しようと思ってたんだよね」  裸足のバムルさんの足元に、ココアの小袋と粉が広がっていた。靴まで茶色くなっている……昨晩のままの状態だ。粉を踏まずにはどうあがいても水道には向かえず、バムルさんは雑巾を持って立ち往生する。「まだ七時か。もうひと眠りしようかな……」   「すみません、フリーツお姉さまを夜更かしさせてしまって……私たちがお喋りしてたとき、お風呂に入る前からすでに眠たげにされていたんです」 「そうだねえ、フリーツちゃん時間だと……。フリーツちゃんはもう少し夜更かししてくれてもいいくらいなんだけどね」  そんなことを話しながら玄関を抜け、きらきらと輝く新雪に二人で降り立つ。まっさらな、敷地の端まで傷一つなく広がる、完璧な表面──かに見えた。  まず目に入ったのは奇妙な雪山で、その手前に……「足跡?」  校舎からうさぎ小屋へ、一人分の足跡が雪の上に残っていた。逆向きの足跡はない──ちょうどいま、誰かが小屋にいるのだろうか。  入り口の扉を押し開ける。ひとりでに照明が付いた。前室に異常はない。二枚目の扉をそっと押すと、扉は音もなく開き……そこに人間はいなかった。退屈そうに伏せていたうさぎたちがのそのそ起き上がり、テウさんに吸い寄せられていく──「アリスちゃん、一匹足りないよ」  テウさんは最奥にある扉を開けた。短い廊下を進み……、そこで息を詰まらせて立ち尽くす。 「……ヴァニちゃん?」  亡骸を見てからようやく血の臭気に気付いた。小部屋の扉周辺の壁には赤黒い水玉が描かれていて、排水溝のまわりの床にはうっすらと血溜まりの跡がある。その部屋の中心で、丸まるような格好で横たわるヴァニさんが、こちらに背中を向けて事切れていた。うなじに粗くて深い切傷が見える。 「テウお姉さま……、人を呼んできてください。……早く!」  蘇生する見込みがないのは明らかだったが、テウさんはすぐにでも離れるべきだと思ったのだ。吸い寄せられるようにして一歩近づくと、ヴァニさんの首の前面がぱっくりと裂けていることが分かる。昨夜と同じ寝巻き姿で、靴を履いているがコートは部屋の端に放り投げてある。近くの床には、普通の台所ではまず見ないような、刃の反った大きいナイフ。  テウさんは今にも崩れ落ちそうな様子で呆然と立っていたが、弱々しくヴァニさんのお腹のあたりを指差した。ヴァニさんの傍らにいた白い何かに私も気付く。  一匹のうさぎだった。凍ったように冷たいそれを抱き上げようとすると、がくりと首が倒れた。同じだ。ヴァニさんと同様に、首の前後を深く切りつけられている。  ここは昨日案内されなかった部屋だ。やはり四方がコンクリートで、大きな机が壁に寄せて置かれている。うさぎのお風呂だろうか、シャワーの付いた巨大な流し台が端に据え付けられている。出入り口は一つで、ブラインドの隙間から窓の外を見ると、いずれも手付かずの新雪が広がっていた。入口付近に小さなロッカーがいくつかあるものの、人が隠れられるようなものではない。だからひとまず、ここに危険はないはず……、でも、じゃあ外の足跡は? ならば先ほど見た、もう一つの奇妙な痕跡は……?  小屋を出る。付近に不審な人影は見当たらず、少しだけ足の緊張が抜ける。左手の雪面に、大小の雪の塊が、山脈のミニチュアのように連なっていた。自然にこんな雪山ができるはずもなく……、私は空を見上げて原因に気付いた。  電線からの落雪だ。雪塊の真上に、小屋の屋根と校舎を架空している電線がある。太い線数本をまとめたもので、雪を山盛りに載せてもたわまない程度の強度はあっただろう。電線に積もった雪が落下して、雪上にひと繋がりの稜線を描いたのか……でも昨夜は風がなかった。載った雪のすべてがひとりでに落ちたりはしない。だとすると、雪が落ちた理由は。  窓枠を頼りにすると、容易に屋根に登ることができた。ここにも誰もいない。内側に向かって傾斜があり、意外にも雪は積もっていない……そうか、熱で雪を融かし、中央に集めて排水するタイプの屋根だ。つまり、積もった雪は今朝までに消えていて、仮に誰かが登ったとしても足跡は残らなかったらしい。  手前の角には電線の一端が取り付けられている。もう一端はやはり校舎の屋上に続いている。じゃあ落雪の原因は、雪を払うように誰かが電線を辿って……、しかし昨晩、屋上には行けないと教えられたことを思い出す。 【11】  学園は当然休みになった。通報したのかしていないのか、シスター・スーと出勤したばかりの大人たちは揃って右往左往していた(なお後に、宿直室にいた彼女について、オンラインゲーム等の記録から一晩まるごとの完全なアリバイが確認される)。女子生徒は寮の部屋での待機を命じられたが、とても沈黙に耐えられる気分ではない。ラウンジに集まって話していても、咎める者はいなかった。  大人よりも先に現場を見てしまった一同。私とテウさんは発見までの経緯を説明した。今朝のことに加えて、昨夜のことも皆に共有した。 「……嘘よ! あり得ないわ! だって昨日の夜も一緒にいて、お喋りして……」  ソファーに浅く腰掛けて泣きじゃくるコメテさんに、バムルさんが目線を合わせて遠慮がちに尋ねる。 「私だって信じられないよ……。でも確かに、ヴァニは部屋を出て行ったあとに、うさぎ小屋で襲われたわけで……、だから、ヴァニが部屋を出た時間を知りたいんだ。頼れるのは2号室の君しか……」 「分からないわ! ……私、すぐ寝てしまったし、カーテンの向こうだったから……」  コメテさんとヴァニさんは、部屋をカーテンで縦に区切って使っていたようだ。ぐっすり寝ていたならば、ルームメイトが起き出しても気付かないかもしれない。 「……どうして、ヴァニおねーさまが殺されないといけないの?」コメテさんは肩を震わせた。 「誰かがうさぎ小屋に呼び出したのよね? 誰なの? ねえ、誰も何も見ていないの?  昨日おねーさまを見た人は? 小屋に行った人はいないの?」  ヴァニさんが殺害された場所は、うさぎ小屋の中で間違いないはずだ。彼女は雪に囲まれた建物の中で亡くなっていたのだ。小柄であるとはいえ、彼女の亡骸を歩いて運ぼうとすれば、相応の痕跡が雪面に残ると思われた。また身体と衣服には、雪の降る中運ばれた形跡はない。  ならばヴァニさんは、小屋まで自分で向かったのだ。目的があったのか、呼び出されたのか……それを知る由はもうない。  コメテさんが最後の質問を繰り返すと、行っていない、と全員が否定した。……でも、口に出さずとも、このとき全員が理解していた。ヴァニさんを殺害した犯人はこの中にいて、たったいま嘘をついているのだということを。 「それに、あのうさぎ……。ひどい」  コメテさんはやっとそこまで話すと、嗚咽を漏らしながら、ぺたぺたと部屋へ戻っていってしまった。沈黙の中に鍵の回る音が小さく響く。  どうしてうさぎは殺されたのだろう? それが犯行と直接関係ないであろうことはなんとなく想像された。雪に閉ざされた小屋の中で、人知れず行われた犯行。あのうさぎが存在してもしなくても、小屋までの経路や凶行の過程には何の影響もないだろう。私は混乱しつつも、不可解で哀れなうさぎの存在を意識の中心から外した。 「……参ったな」エメラさんも顔色が悪い。あの現場の凄惨さは、誰もの予想をゆうに超えていたようだった。 「あの……、あの刃物はどこにあったものですか?」  凶器のナイフは誰かの所有物だろうか? 「元からあの部屋にあったやつだよ」「えっ」  エメラさんの冗談ではないようだった。刀身が長くて禍々しく、狩猟用でないなら戦闘用だと言われても信じられる。 「で、では、玄関の鍵は? ロックはされないんですか?」 「玄関の鍵が、内側からサムターンで開けられる」 「ガラス戸の鍵をどれか一つ事前に開けておけばよい。朝になってから人知れず再施錠するのも容易かったはずじゃ。ヴァニおねえさまがどうして出たのかは分からぬが」  つまり、校舎の出入りはなんら障害なくできたということか。 「……私とアリスは昨夜、21時10分くらいに床についた。ラボではなく1号室じゃ。ヴァニお姉さまを最後に見たのもそのとき。夜中には何度か用を足しに行った。アリスがお茶会から帰ってきたのは……22時40分ぐらいかの。その後も一度、アリスを起こさずに出たことがある」  一同が避けていた、"昨夜の自身の行動"を、とうとうフリーツさんが口にした。服も髪も朝のままだが、口調ははっきりしていて寝覚めはいいようだった。 「はっ、はい。行ったのは22時過ぎです、多分……」  エメラさんがむこうを向いたまま頷いた。 「では、バムルおねえさまは何か見なかったか」  隣に座ったバムルさんの目を見る。時計回りに訊いていく魂胆だろうか。バムルさんは質問の意図を察して、おそるおそる呟いた。 「見なかったよ何も……。……って、わかるよ、アリバイってやつを訊きたいんだよね……」エメラさんに視線を送り、「言った通り、22時少し過ぎにラウンジに来たんだ。エメラとアリスとでココアを飲んでたんだよ……」  バムルさんは順を追って昨夜の様子を語った。ここラウンジは廊下から見えないので、トイレに立ったフリーツさんも気付かなかったと言っていた。大声で話したりもしなかったのだ。 「……そのあとバムルは部屋に帰って、朝まで出てないよ。ほらココアの粉が……」部屋の出入りを阻んでいた。これは動かざる事実だろう。 「分かったのじゃ。カップを洗って戻ってくるまでは?」 「えっ!? ……一分、いや……、三分だよ」 「ふむ」 「で、でも、たった三分だよ!? バムルはやってない……カップを洗うので精一杯……いや精一杯ってこともないかもしれないけど……、ヴァニを襲うなんて。小屋まで走って往復しても人殺しなんて無理だよ。だいたい……」口元を押さえて、呻くように話す。「奥の部屋は壁にまで血が飛んでいたんでしょう? じゃあその、犯人はいわゆる……返り血を受けたはずで。汚れたパジャマを捨てるなり洗うなり、それも考えれば……考えなくてもだよ? ……絶対に時間が足りないよ」 「防水シートや外套があれば、返り血を防げたかもしれぬ」 「はあぁ!?」バムルさんが取り乱しそうになったので、私は慌てて遮る。「そんなもの処分できないですよね」  布の着替えくらいなら処分できる──たとえば、細かく引き裂いてトイレに流してしまうとか。でも、ビニルシートやレインコートといった、血液を防げるような材質のものはそうもいかないだろう。洗うにしても、拭いたり乾かしたりしているところを見られれば終わりなのだし……。いかなる形であれ、犯人が一度返り血を浴びたのは間違いない。  自身の発言を棄却し、フリーツさんは頷く。「すまない。バムルおねえさまを疑っているわけではないのじゃ。まだ考えねばならぬことが多く……。して、エメラお姉さまがココアを淹れて戻ってくるまでは?」  ソファの背面にもたれて立ち、窓の外を眺めていたエメラさんが答える。「さあ? 十五分はかかったかな」  フリーツさんは首をかしげる。「十五分?」 「エ、エメラはココアを探してたんだよ」ため息を付いてバムルさんが口を挟む。「全員一個ずつ飲んで残り三つだったから、誰かが箱を潰してて。引き出しにばらで入ってたんだよ……」 「……箱を捨てたのは私です、ごめんなさい」泣き腫らしたまま俯いていたテウさんが小さく呟いた。 「では、次は」フリーツさんはテウさんに問いかけた。私の番を飛ばしたが、初めに話してしまった内容でおおむね全てで──お茶会以降について言えることはどうせなかった。私はフリーツさんがトイレにいる間に出歩けたのだし、互いの動きを見張るために隣で眠ったわけではないのだ。  テウさんが答える。「……私は一度も出てない。エメラお姉さまが戻ってきてからも、ずうっと一緒だったよ」そして絞り出すように続けた。「エメラお姉さまは朝まで隣に居たよ、保証する」  テウさんはエメラさんと手を繋いでなければ眠れないそうで……、テウさんによるエメラさんの存在の保証になるわけか。あれ? でもそれは、テウさんの存在保証にはならないのでは? 「テウはずっとあたしの横に居た」エメラさんが補って証言する。「これで全員、一通り話したな」 「……もう一つ、言いたいことがあるのじゃ」緊張した口振りだ。「金網を叩き付ける音と、叫び声を聞いた」全員が視線を上げる。 「……『お姉さま』……、『止(や)めて痛い』。そして、それぞれの前に、小屋の扉に叩き付けるような音ががしゃんと」生々しい言葉に惨劇の光景が想起されて、悪寒が走る。  信用しかねた様子でエメラさんが言う。「ヴァニが『お姉さま』って言ったのなら。あたし達三年が犯人だな」バムルさんが青ざめる。「まさか!」 「それが……、誰の声かは自信がないのじゃ。それぞれが誰の声なのか分からぬのじゃ。つまり、ヴァニお姉さまが『お姉さま、止めて痛い』と言ったのかもしれぬ。一方、犯人が『ヴァニお姉さま』と名を呼んで襲い掛かり、ヴァニおねえさまが『止めて痛い』と言ったのかもしれぬ。尋常でない声色だった……トイレの中でかすかに聞いたのじゃ」  寮の近くのあのトイレは寒い。壁が薄いのか通気孔が大きいのか……。だから、寮の部屋では聞こえない音が届いたとしてもおかしくはない。 「そ、それはいつなのさ。決定的じゃんか……」 「申し訳ない、時刻は分からぬ。アリスが部屋を出た前後じゃった」 「はい? なにそれ意味ないじゃん……。悪いけど、幻聴じゃなかったんだよね? もっと具体的に分からない? 前後十分くらい?」 「時計を見ていなかったのじゃ。21時45分から……22時半くらいには戻っていたはずで……」  合わせて四十五分。「えっと、雪が止んだのは22時過ぎだったと思います。お茶会に行くときに見たから……」だから? 駄目だ。ヴァニさんが襲われたらしき時刻、雪が降っていたのか止んでいたのかすら分からないのか。 「その『お姉さま』がその場にいる相手を指すとは限らないんじゃないか。ヴァニが苦痛に耐えかねて慕った名前を呼んだとしたら?」エメラが口を挟む。「文章は繋がらないな」 「『止めて痛い』でしょ? その直前に別の人の名前は呼ばない気がする……?」バムルさんの意見にフリーツさんは頷き、「対面した相手に呼び掛けたふうに聞こえた」と証言した。……なるほど。もし『お姉さま』が犯人の台詞ならば、発言者は私たち下級生の内の誰かだ。二つに一つである。  ……でも、その声を本当に信頼できるだろうか。「あ、あの」  私は疑問を口にした。「ヴァニさんが……、相手を、別の人と間違えていた可能性はないんでしょうか。もしくは反対に、相手がヴァニさんを別の人だと思い込んでいた可能性は。仮にそのおそれが少しでもあるのなら、叫び声からわかることは何も……」 「お互いに見間違えたりはないんじゃない……電気があるでしょ」バムルさんが言ったのは、うさぎ小屋にあった人感センサーの照明のことだ。相手の存在を認識していたのだから、犯人とヴァニさんは互いに人物を誤認したりしない、という見解に私たちは至った。 「叫び声が偽物だった、ってことは……ないよね?」バムルさんが言い、エメラさんが整理する。「犯人が被害者のふりをして、『お姉さま』と叫んだってことか?」  フリーツさんは首を振る。「外の音が聞こえるトイレに私がいたのはたまたまじゃし、第一、視界が開けて逃げ場のない校庭にいる犯人が、人を呼び寄せかねない叫び声を上げるとは思えん。犯人の想像には、犯行の音を聞かれることは入っていないはずじゃ」  これもまた、前提にするに足る説得力を持つ意見だった。 「……みな、他に言い忘れていることはないのじゃ? じゃあ……アリス以外のみな。靴を見せてほしいのじゃ」  続けて、フリーツさんは妙なことを……、そうか。靴のサイズか。足跡があるのだから。……ところが、靴の大きさは(ヴァニさん含め)誰もが似通っていて、しかも足跡は朝日に晒されてぼやけていた。学園の指定靴の模様であること以外は判別できない。私のローファーはもちろん、誰のブーツにも不審な痕跡は見て取れなかった(バムルさんの靴も、ココアの粉は綺麗に拭われていた)。 「あの、そもそもどうして、帰る足跡がないんでしょうか」行き詰まった様子のフリーツさんを見かねて、私は口を開く。「それに、ヴァニお姉さまの足跡は? 本当は足跡が三つあるはずですよね」ヴァニさんの往路と、犯人の往復で三つだ。 「雪が降ってない限り足跡は消えないよね……空でも飛べるなら別だけど。ヴァニの足跡は雪が止む前についたけど、雪の下に消えたってことか」独り言のようにバムルさんが言う。「犯人の帰りの足跡は?」 「残っているのが帰りの足跡ではないか? 後ろ向きに歩いたのじゃろう」 「……確かに、うまくやれば分からないかもね」 「例えば、うさぎ小屋の屋上に校舎から跳び移るのは不可能じゃな」 「さすがに遠いって。だいたい屋上の鍵はコメテしか持ってないんだから、復路は歩きだよね」  そこまで聞いて、反射的に私は呟く。「そうだ、枯山シューズ……」 「え?」「フリーツさんの発明品です。皆さんは……?」肯定が返る。在り処も使い方も知っていた、かつて実演するのを見た、と。 「しかし私はいつも戸締まりを……あっ」フリーツさんが声を上げる。「ええ。昨日は鍵を掛けられなかったんですよね」  あの靴は指定靴と似た形をしていて、靴底は完全に共通。そして、鍵が壊れていた昨日は誰でも棚から拝借することができたのだ。 「さっき確認したとき、ラボに異常はなかったのじゃが……」あの散らかりようでは、物が数センチ動かされていても分からない。しかも舗道と自動除雪車のおかげで、校舎からラボまでは雪に足跡が残らないのだ。……しかし、わざわざ靴を盗む理由があるだろうか、というのは気になる。 「……架空線かな」場の沈黙を破り、テウさんが口を開く。「うさぎ小屋に電気を送る線があるよね。屋上と繋がってる……」  ……まさか。足跡を付けないために、あのケーブルを渡って行き来した……のだろうか? でも。「昨夜、屋上には出られないって聞きましたけど」 「それは違う」エメラさんが私の誤解を正す。「扉がオートロックなんだよ。内側からしか開かないから、屋上に出ると戻ってこれない。だから行けない、と。開けっぱにするとブザーが鳴る」  そういう意味だったのか。ということは……。 「往路には、電線を使えますね」私は綱渡りをする犯人の姿を想像する。  凍て付く月夜に。殺意とともに。両手でバランスを取りながら……。  バムルさんが頭を抱える。「普通の靴と、枯山シューズと、電線があって……雪が止む前後で二人の人間が……足跡は一つ……こ、混乱してきたよ。何を考えてたの、犯人は……、ヴァニは?」 「動機や犯人の思考は、この際捨て置くべきかもしれぬな……。二人の行動の組合せで、この状況を作り得るパターンを、一度すべて検討できぬか」  結果から逆算か。たとえば……、雪が止む前にヴァニさんと犯人が小屋へ行って、雪が止んだ後犯人が後ろ歩きで帰ってくる。これなら小屋に向かう足跡が一つ。たとえば……、雪が止んでから、ヴァニさんが電線を渡って、犯人は枯山シューズで小屋へ行って、その後犯人が枯山シューズを使って帰ってきたならば。往路の足跡が一つ。いずれも、可能かどうかでいえば可能といえる。 「……途方もないな」疲れ切ったようにエメラさんがこぼす。 「発明品の靴は、往路の足跡と同じ場所を踏まないと動作しないんだろ?」 「いかにも。後ろ向きに歩いたとき、そこに自分の足跡があれば新たに足跡はできないし、自分の足跡がなければクレーター状の妙な跡が残る」 「往路の足跡が雪の下に消えていたら?」 「復路はクレーターになったはずじゃ」だがそんな跡はなかった。 「電源は切れるんだよな?」 「うむ。切ってしまえば普通の靴と変わらぬ」  私は混乱した。……結局、機能が一つ多いだけか。指定靴と同じ、普通の足跡を残す機能が一つ。加えて、雪が止んだあとに、往路の足跡だけを残して往復できる機能が一つ。 「靴の予備とか……、悪用できる発明品に心当たりはありませんか?」 「靴の余りはない。私の発明品はでき次第見せておるじゃろうが」  皆が頷くので、とりあえず私は納得することにした。 【12】  校舎の屋上から雪原を見下ろす。思ったよりも高く、この電線を頼りに空を渡ると思うと目が眩むようだ。  だが、このルートが使われたのは間違いない。電線に高く積もった雪が隅から隅まで落ちていた。そんな状況が起きたのは、誰かがここを歩いたからにほかならない。一歩ずつ雪を押しのけて足を進めたのだろう。電線を揺すったり物をぶつけたりしても到底不可能だ。  数本のケーブルを束ねた電線は内側がわずかに低くなっていて、昨日のような風のない雪の日にはかなりの量の雪を積んでいたことだろう。 「電線の上には雪がない。真下のごろごろした塊にも、綺麗な雪はまったく乗っていないのじゃ」  私は両腕を広げ、空中に数歩踏み出す。腰に結んだ命綱をフリーツさんが握っている。やや現実味を欠いた電線バランス仮説をどうしても捨てきれなかった私たちは、集まりが解散したあと、実験のため屋上に訪れたのだ。 「つまり、誰かがここを通ったのは雪が止んだあと……あれ?」  ゆっくり歩みを進める私の足元で、電線の一部がささくれ立っている。 「最近、風の強い日はありましたか?」 「先月嵐が来たが……どうしたのじゃ?」  その嵐のせいだろう──人為的なものではない。ところどころ被膜(カバー)の絶縁ビニールが剥げ、高電圧の金属線が露出して触れられる状態になっていたのだ。真上から見ないと分からない位置だ。ゴム底の靴を履いているとはいえ、上を歩くのはさすがに恐ろしい。残り八割は渡りきったものとして、私は屋上へと引き返した。 「電線から校舎に入るには、このドアを通るほかないみたいですね」  屋上のドアから電線までは足跡を付けずに渡れるが、他の場所から飛び降りたりすれば必ず痕跡が残るようだった。当然そのような跡はない。 「電線を向こう側に渡るのに、どんなに早くても二分くらいかな……、でも、渡れないことはないですね」  私たちはそう結論付けた。  閉ざされたオートロックの扉の前に戻り、傍らに立っているコメテさんと目を合わせる。 「……わたしが鍵を貰ったのは、夏のあいだ、屋上のお野菜を任せてもらっていたからなの」  屋上の一角を示す。盛り上がっている雪の下には、プランターが埋まっているようだ。屋上の扉を外側から開ける唯一の鍵で、三人は屋内へ戻る。  コメテさんに声を掛けたのは、鍵を開けてもらうためではない。ヴァニさんと同部屋のため一切のアリバイがなく、さらに屋上の鍵を持っているという、彼女の境遇が気懸かりだったのだ。必ずしもコメテさんを信用しているわけではない。だが、あまりにも立場が不利に過ぎると思ったのだ。その上、あんな風に集まりの場を抜け出してしまって──コメテお姉さまはすべき主張をできていないような気がした。  偶然ながら、予感は当たった。  彼女が思いがけず屋上まで付いてきてくれたのは、どうやらあの場で言いそびれた、伝えたいことがあるかららしかった。 「昨日の夜、一度だけ目が覚めたの。物音がした気がして……。気付いたらヴァニおねーさまが居なくて、でも、いなくなった直後なのかどうかも分からないの」 「何時何分のことですか?」 「時計は見なかったわ。……それで、わけもなく心細くなって、廊下を覗いてみたの。そしたら、廊下の東の突き当たりに人影がいて」  寮から続く廊下の東端、階段の前である。仮にラウンジに居た時間だとしても、東西の廊下はほど遠い死角だ。 「後ろ姿しか見えなくて、しかも暗くて、だからわたしには誰だか分からなかったの。でも……垂れ耳だったわ」  私は息をのむ。人影はヴァニさんだろうか? ……それとも犯人か? 正確な時間さえ、それさえ分かれば。 「その人影は階段を上ったのか? 下ったのかの?」 「遠くて分からなかったわ、一瞬で消えてしまったし……」 「せめて、消灯からどれくらいか思い出せぬか?」 「分からないわ、でも……」食い下がるフリーツさんに応えようと、じっと目を閉じる。そして、彼女はまっすぐこちらを見て告げた。 「……そのとき、すでに雪は止んでいたわ」 【問】 必要な情報はすべて示されました。 ヴァニを殺害した犯人を推理してください。 以下のことを保証します。 ・犯人は単独犯。共犯者は存在しない。 ・犯人以外の人物は虚偽の証言をしない。  ・ここでは、意図的なものに限らず、事実に反するあらゆる発言を「虚偽の証言」とする。  

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