犯人当て小説$「バランス$うさぎ$天使」$解答編$-横書き$読みにくい版
2025/09/08 月曜日
(先に問題編をお読みください)
真相
灰が降り続いている。解き放たれたうさぎが、雪原を跳ね回っている。 泡立つ海面を遠くに聞きながら、二人は向かい合っていた。 「………………神性はどこにある」 静寂にブーツがぎしりと鳴いた。 「本の神話の主人公たちは、試練と冒険を乗り越えて祝福を得た。……それは因果が逆なんじゃないか。彼らは最初から、生まれたときから神話と結ばれていたんじゃないのか。描かれた瞬間から……、いや、描かれることと等価として天使だったんじゃないのか」 「……頑張ってたよね。ヴァニちゃんも。お姉さまもだよ」 「でも、人間はうさぎになれないんじゃないか」 ヴァニの死体が見付かってから数時間後。予兆はなく。地殻や溶岩の均衡が崩れて、ラヴァ島の海が火を噴きながら持ち上がり、島の住民は避難船に乗った。船を抜け出し、学園に戻ってきた二人を除いて、もうラヴァ島には誰もいない。 テウは問いに答えず、足元のうさぎを一匹抱き上げた。 「あなたがどうして戻ってきたのか、いま分かりました」 火山ガスの異臭が立ち込める。 「きっと動機も同じかな……、エメラお姉さま」 「まずはコメテちゃん。あの子は昨日の午後から翌日朝までずっと、靴を没収されていたよね。だからずっと裸足だった。 いったん往路だけを考えたよ。校庭に残っているのはブーツの足跡一列だから、もしコメテちゃんが犯人だとして、そして校庭を歩いてうさぎ小屋に向かったとしたら、小屋に来たのは雪が止む前になる。裸足の足跡は雪が降って消えた、と考えないと、つじつまが合わないからね。 じゃあ靴跡はどうやって付いたのか……ヴァニちゃんにしか付けられないよね。ヴァニちゃんがうさぎ小屋に向かい、そのとき雪が止んでいたから、あの足跡が残った。 これで順番は……うさぎ小屋にコメテちゃんが来る、雪が止む、ヴァニちゃんが来る。……でもそのあと、裸足のコメテちゃんはどうやって校舎に帰ったんだろう。裸足の足跡は残ってなかったんだよ」 ゆえに、靴を履かないまま小屋へ行き、犯行を行うことは不可能。勿論、殺害したヴァニの靴を借りて校舎に帰ったわけでもない。ヴァニの死体は靴を履いていた。 「あるいは、コメテちゃんは屋上の扉の鍵を持っていたね。屋上から校内に入れるから、電線を復路にも使うことができる。電線ケーブルを渡れば、行きも帰りも雪上に裸足の足跡は付かない……けれどアリスちゃんたちに訊いたら、実際は裸足で渡れる状態じゃなかったみたいだね」 電線の被膜は剥がれていた──金属線が露出した箇所を裸足で踏めば無事では済まない。そして危険な箇所は真上から見なければ分からない状態だった。視界の利かない夜に察知して回避できたとは言い難い。 「……だから、コメテちゃんが犯人になるには、靴が必要だよね。……じゃあ、靴を盗んで使ったのかもしれない。その可能性はあるかな」 寮のそれぞれの部屋は常に施錠されていて、靴を盗めるタイミングはない。同室のヴァニの靴を履けばその間ヴァニは部屋を出られないので、事件は起きようがない。 「唯一盗める靴は、フリーツちゃんのラボにあった発明品だね。"枯山シューズ"を使えば、往路の足跡が一つできるパターンがいくつか成り立つ。"枯山シューズ"を作動させて帰ることも、電線を歩いて帰ることもできる」 例えば、雪が止む前にヴァニがうさぎ小屋へ行き、雪が止んだあとにコメテが小屋へ……そして犯行後、コメテは電線から脱出し、屋上の扉の鍵を開けて中に入るパターン。 「でもコメテちゃんは、コメテちゃんだけはラボに行かないんだよ。あそこは普段なら、いつも通りなら施錠されているんだから」 昨夜は鍵が壊れていて、誰でも自在にラボへ侵入できた。ラボが爆発して鍵が壊れることは多々あったようで、ならば、爆発に気付くことがラボへの侵入を試みる必要条件になる。 「コメテちゃんは爆発音の鳴る少し前から、防音性の高い地下室に籠もっていた。爆発の少し後にシスター・スーに見付かって、夕食の直前までそのまま地下室に閉じ込められてたよね。窓のない地下室からラボの黒煙は見えないし、爆発事故が話題に上がることもなかった。ラボの外見はいつも通りのぼろぼろさで、だからコメテちゃんはとうとう、ラボの鍵が壊れていることを知らなかったんだよ」 コメテが犯人でないことが証明された。そしてそのことで、コメテの証言を採用できるようになる。 「コメテちゃんは、"雪が止んだ後に、校庭か屋上へ向かう、垂れ耳の人影"を見たと言ってくれた」 ヴァニか犯人のいずれかである。 「ところで、アリスちゃんが立ち耳なのは覚えているよね?」 コメテは『リボンを巻いた垂れ耳』。テウは『毛量の多い立ち耳を』持つ。 エメラは『耳がぴんと立って』いて、ヴァニは『垂れ耳の女の子』。 立ち耳であるフリーツが『動くたびに』、『耳の上に載っていた灰や埃が再び頭に降り落ち』ていた。 女子生徒はアリス『を加えて七人』で、『垂れ耳の子が一人少ない』ので垂れ耳は三人。バムルは『自信なさげに、垂れ耳の陰から』覗いていた。 「例えば、アリスちゃんが犯人だと仮定したら。その垂れ耳の人影は犯人ではなくヴァニちゃんだね。……ヴァニちゃんは高所恐怖症だって、聞いたことはあるよね。だから屋上から綱渡りなんてするわけない。そのまま外に出て、雪に足跡を付けたんだよね」 この時点で、指定ブーツで小屋へ向かう足跡が一つ。 「アリスちゃんが校庭を歩けば、二つ目の足跡が……、さらに戻れば、三つ目の足跡が。 往路で屋上から綱渡りするか、盗んだ枯山シューズを復路で起動するかすれば、足跡の数は一つ少なくなる計算だけど、どっちかしか選べないからね」 足跡は最終的に、二つ以上残る。 「……それに」エメラはお茶会でのやり取りを思い出す。「アリスは新入生だ。校舎の屋上に上がれることを知らなかった。うさぎ小屋の屋根が融雪式で、足跡を残さず歩けることも知らなかった」 「そうだったね」 これで、アリスが犯人である可能性も消える。 「フリーツちゃんについては、足跡のことを考えるまでもないよ」 ひときわ大きな地響きが鳴る。避難船は安全なところまで逃げられただろうかと、テウは港の方角をちらりと見た。 「うさぎ小屋の中で、犯人はヴァニちゃんの返り血を被ったはずだったよね。そのあと、血を浴びた服はどうしたのかな。きれいに洗濯できたのか、処分するための服に着替えておいたのか……どちらにしても、犯人は、ベッドに入るときに着ていた服を、犯行前後で一度脱いだはずだよね。 でも今朝フリーツちゃんに会ったとき、パジャマの首元のリボンは昨夜のままだった。アリスちゃんが作った、失敗しちゃったリボン結びだった」 エメラは心の中で動揺する。フリーツの胸のリボン。地下室にいたコメテ。この人はなぜそれほどまでに、周囲で起きたことすべての仔細に目を向けられるのか。 「リボンが結ばれたのはメガネを掛ける前。そのあとすぐお風呂場が施錠されたから、フリーツちゃんは鏡を見るチャンスがなかったんだよ」 鏡はシャワールームにしかない。目線の高さにある窓は経年劣化で曇っているものが多く、自分の姿が映らなかった。 「首元は自分では見えないから、フリーツちゃんは自分のリボンがどんなふうに見えているか知らなかった。 一度服を脱いだら、元の見た目を再現できないんだよ」 よって、フリーツにも犯行は不可能。 「じゃあ次は、あの子が言ってくれた、うさぎ小屋の方から聞こえた叫び声についてだけど……」 事件の朝にフリーツがした証言──『お姉さま』『止めて痛い』。 「可能性は二つ。もし犯人が二年生のヴァニちゃんに『お姉さま』と呼びかけたなら、犯人は一年生かアリスちゃんだよね。もしヴァニちゃんが『お姉さま、止めて痛い』と続けて言ったとしたら、犯人は三年生になる」 この時点では、いずれが正しいのか知るすべはない。それでも分かることがある。 「私はヴァニちゃんと同じ二年生だから、犯人にはなり得ないよね」 テウとヴァニはお互いに、"お姉さま"の敬称を付けたことは一度もない。生年月日が同じで、年齢差は一日未満なのだ。もちろん姉妹でもない。テウにきょうだいはいない。 テウは雪を踏み、校舎の裏へ足を進める。エメラは誘われるようにその足跡を追う。 容疑者は二人に絞られた。 「……残ったのは、バムルお姉さまとエメラお姉さま。二人は、お茶会が解散してから朝まで、部屋から出なかったことが保証されているよね。バムルお姉さまはココアの粉によって、エメラお姉さまは、……手を繋いで寝ていた私によって。 立場が似ているね。さらに、お茶会の間に一人で行動した時間があるのも同じ──エメラお姉さまが十五分程度、バムルお姉さまが三分程度。違うのは耳の形だね。 アリスちゃんのときと同じことを考えるよ。立ち耳のエメラお姉さまが犯人ならば、コメテちゃんが証言した垂れ耳の人影はヴァニちゃんで、ならヴァニちゃんが校庭に足跡を付けたのは雪が止んだあとになる。既に足跡が一つあるから、誰も小屋まで往復できなくなる。 では、垂れ耳のバムルお姉さまが犯人なら? 垂れ耳の人影はヴァニちゃんだったのかもしれないけれど、バムルお姉さまだったと考えることもできる。もしそうなら、ヴァニちゃんはいつ校舎を出たのか。いつまで生きていたのか。二つの時刻が繰り上がるよね」 肺を冒す粘ついた空気が辺りに充満する。エメラは膝に手を付き、口元を拭った。 「ヴァニちゃんが雪の止む前に出たとすれば、バムルお姉さまにも犯行はできる。 例えば、雪が止む前にヴァニちゃんが小屋へ。雪が止んでからバムルお姉さまはお茶会に参加する。カップを洗いに行く時間を使って、枯山シューズを盗み、往路の足跡を付ける……コメテちゃんが目撃したのはこのときの後ろ姿だったことになるね。犯行後、シューズの機能で復路の足跡を付けずに帰って、お茶会の終わりに合流する」 「電線の雪が落ちてないだろ」 「じゃあ、往路は電線の上を。復路は後ろ歩きで……」 「時間がない」 「……これならどうかな。犯行はお茶会の前、雪が止む前に全て終わっていて、カップを洗いに行くときに電線の上の雪を落とした。この姿をコメテちゃんが見ていて、帰りは後ろ歩き……」 「あそこを歩いて三分間で、か?」エメラは嗤った。あれはそんな簡単な仕事じゃない。 「夜中は一階の渡り廊下だって使えない。あいつはカップを洗うので精一杯だよ」 テウが屈み込み、苦しそうに咽せた。左手で喉を押さえ付け、ガスで傷付いた粘膜を宥めようとしている。 エメラはテウから目を背けた。うさぎたちはエメラを一瞥もせず、テウの傍へ寄ったり離れたりとうろうろさまよっている。 「信仰によって、日々の生活を一歩一歩踏み外さないように送ることで、天使になれると……永遠になれるといわれて、あたしたちは学園で過ごした。 確かにきらめいた瞬間はあった。美しくて安らいでいて、そこに奇蹟を感じられるような一瞬があった。 だからって意地汚くしがみ付いたりはしないで、あたしたちは誇りを持って振る舞ったつもりだ。終わらない輝きに憧れながら、そんな内心を晒したりしないように」 咽が灼ける。視界の中で、西日に染まった雪面がばらばらに歪んだ。 「卒業が近付いた今。あたしに何か変化はあったか? 何か与えられたか? ……いや、恩恵はなかった。 天使に変身したりなんてしない。そんなことは知っている。でも、あたしを慰めてくれる何かがあると思っていた。期待していたんだ。この喪失さえ癒やされれば何だってよかった。……じゃあやっぱり、天使になれるのか?」 エメラは呟いた。「……廊下でヴァニを見掛けたとき。表情を見てすぐに分かった。当番のことだと思ったんだ」 テウは手を伸ばし、足元で弾むうさぎを両手でそっと抱き上げた。 「玄関を出てヴァニの足跡を見て、あの方法を閃いたんだ。準備していたわけじゃない」 「……つまり、ヴァニちゃんの当番を手伝ったことにならないように、だね」 エメラは沈黙で肯定した。 うさぎを一匹選び出し、食べるために殺す当番の仕事において、他人の手を借りることは禁じられている。動物の命を奪うならば、それは一人で成し遂げなくてはならない。 「当番の仕事は昨日じゃなくたってよかった。肉のないシチューを出してしまったのは、あいつが昨日の夕食までにやると言い張ったからだ……結局は間に合わなかったわけだが。こんなことは初めてだった。ヴァニは一年間で一度も、当番をためらったりしなかった」 ヴァニはうさぎを殺すために、人目を避けて部屋を出た。 「あいつが何を悩んでいるのかは分からなかった──だが思い詰めていたのは間違いない。線の上を歩いてみたのは覚悟を決めるためなのか、単なるくせなのか……。玄関から見たあいつは、細い道を辿ってうさぎ小屋を目指していた」 架空線ではない、地面の道。 「天頂に上った月が作った、電線の雪の影の道だ」 ──殺さなきゃ。今日こそ、殺すんだ。 ──決意の言葉とともに、垂れ耳の少女は薄闇の中に白い息を吐いた。 ──足元を確かめ、真っ直ぐ伸びた黒い線の上へ、一歩踏み出してバランスをとる。 「あたしがケーブルを渡ると、真下に落ちた雪がヴァニの足跡を消した」 目撃された人影はヴァニ。犯人はそれより後、雪が止んだあとに出ながらも、校庭の足跡は再びゼロになっていた。 エメラがヴァニより先に後ろ歩きで帰れば、小屋を出たヴァニの目には、小屋に向かう足跡が一つだけ残って見える。たとえ一人で命を奪えず、他人の手を借りてしまったとしても、そんな協力者などいなかったかのように見える。 「小屋の屋根を降りて様子を見ると、ヴァニはこちらに気付いた。 ……命を秤にかけることが苦しかったそうだ。健康なやつと、首の折れたやつと」 健康で均質な家畜の命を丸ごと収穫することならば、彼女たちは折り合いを付けていた。ヴァニもそう自覚していた。 「ごく最近に事故があったようだった。折れた首……、取り返しのつかない、時間切れを待つだけの傷。 それで彼女は悩んだらしい。傷付いた命に止めを刺すことが正しさなのか。生きようとしている命の芽を摘むことが罪なのか。 見なかったことにして、犠牲をランダムに選ぶべきか。ならばそのときそう決めるまでに経た価値判断は無視できるのか、なんてな」 ヴァニはエメラを頼った。それならば試せる。実験をしたい、手伝ってほしい、と。 「動物の内心は見えない。痛みを見せたがらない。変化を一身に吸収して、なんの変わりもないように平然と振る舞う。だから、あのうさぎの苦痛の有無を知るには、自分の身体を使って実験するしかない」 丘の方へ歩きながら、テウは呟く。 「お姉さまは、ヴァニちゃんを殺すことになってもよかったんだね」 「ああ、そうだ」自分でも不思議なほどに冷静に、エメラは昨夜のことを回想した。 「ヴァニは……あのとき死んでも、それはそれで美しいと思った。陳腐な話だろ、そういう形の永遠もあるんじゃないかって発想は?」 永遠? テウは目眩を覚える。この人は何も、悲しいほどに何も分かっていない。 部屋の入り口に横たわったヴァニの細い首に、コンクリートの扉を叩き付ける。重い扉の縁が円弧を描き、ギロチンのように襲い掛かった。扉の窓に付いた金網が音を立てる。閉じる扉に頚椎を押し潰されたその状態について、ヴァニは悲鳴とともに評価を下した。『痛い』と。 その様子を見て、エメラは絶望した。美しく可憐で安らかだったヴァニの朽ちていく命が、永遠の遠さを、天使の遠さを物語っていた。 自分もそうなるのだ。 「制御を失った身体は、すぐに早送りで醜悪になって。……あたしは慌てて服を脱ぎ、止めを刺した。苦しんでいたと判ったうさぎも当然すぐに殺した。解体用のナイフで首の前後を切り付けたから、ドアで挟んだ痕なんかわからないと思うけど。 解体室のシャワーで身体を洗い流し、服を着て大急ぎで戻った。お湯は沸いていたから、ココアを淹れてアリスとバムルのもとに戻った。それで以上だ」 動機などない、苦しむ姿と朽ちることへの恐怖心から起きた、衝動的な殺人だった。 テウは疑問を口にした。 「後ろ歩きで帰ったのはどうして?」すでにそんな偽装は必要ない──ヴァニのための偽装はもう意味を成さない。 「自殺に見えるかなって」エメラはごく素直に答える。「……見えないか」 違う。 「ヴァニちゃんは死なないよ。あの子はあの子の毎日を生きて、ちゃんと生きて、地続きに天使を目指していたのに。 地道──ほんとうに地道だったね。安寧を台無しにする興冷めな俯瞰もなしに、物語の濁流に呑まれない純白の内心を持っていた」 「……でも、あの真面目なヴァニですら、天使ではなかったわけだ」 何が天使なものか。血の泡、断末魔、痙攣──むしろ彼女こそが、時間切れの存在を一瞬のうちに示して見せたではないか。 エメラは膝を折った。新鮮な空気は、すでに地表すれすれにも残っていないようだった。地面を這うように横切ったうさぎを左手に抱える。 「さて……。毒ガスもやっぱり苦しいはずだろ」 懐から取り出したナイフの刃が光る。 「エメラお姉さまは、どうしても怖かったんだね」 「そうだ。どうして怖くないのか、理解ができない」 「永遠を信じられない?」 「信じるためにここに来たはずなんだがな」 三年前のことを思い出して自嘲する。もしも永遠を得られたならば、有限と鉢合わせることはもうない。怖いものと鉢合わせることはもうない。ならば目指そう。天使に。あたしは天使に。 「怖いじゃないか。この日々が春になれば終わり、やがて跡形もなく消えていくことが寂しい。皆と過ごす時間に二度と戻れなくなることが耐えがたかった。その順番が回ってくることを知りながら、皆の顔を眺めて待つのが辛かった」 エメラは自覚していた。それらは捨てるべき疑いそのものだ。天使の世界は天使の世界なのだから、天使でないものは存在しない。永遠を体現する天使の世界の住人が、永遠への疑いを認識するはずがない。 テウは穏やかに言った。 「でも、三年間は終わってしまった?」 「……こんなにすぐ終わると分かっていたなら、あたしたちはもっと無様に怯えたり喚いたりできたんだ。 ……いや、分かっていた。望んで耳を塞いでいたわけじゃない。信じていたから。恐怖を飲み下して、ありもしない平常の日常を実践してきた。 もしこの時間の儚さを、意識に上げることさえ許されていたなら。意地汚く青春に貪り付いてよかったなら。落ちていく砂粒のイメージを振り払わなくてよかったなら!」 エメラは繰り返す。 「……なんて。そんなことをしていればお恵みを賜ることができる、と本気で思っていたわけじゃない。ある日突然、本の挿絵のような天使に変身してしまう、だなんて妄想はしない。 それは比喩なら比喩でいいんだ。でも、何の恩恵もないってのはどういうことだ? 目的地には辿り着かなくても、歩くことが怖くなくなりました。それならそれでいい。 今も纏わり付いてくるこの痛苦を、少しでも和らげてくれる何かがあったなら、信仰にも意味はあったと言ってやる」 二人は見つめあう。逆光の中のテウを視界の中心に捉え、エメラはナイフの柄を握り締めた。 「エメラお姉さまはご褒美が欲しかったんだね。私たちの三年間。ときには永遠にしてしまいたいくらい幸せな一瞬があって、でもそれを、こんな日々がずっと続けばいい、なんて願ってはいけなくて。反対に、こんな日々もきっとすぐ終わる、なんて諦めてもいけなくて……」 「そんな風に内心を抑え込んで、美しく輝く期限付きの日々をあたかも永遠の日常であるかのように……馬鹿の振りをして生きて。しかし残念賞もなしというわけだ」 「だから、全部嘘で無意味だった……、とは、考えなかったんだね」微笑んだ。「偉いよ」 エメラは吠えた。それが声になっているのか、自分では分からなかった。 「テウ。……全て嘘だったのか? それとも、あたしが失敗しただけなのか? 天使はいないのか、いるのか? いるとして、あたしたちの中に存在するのか? 千人に一人で存在するのか? 人間が天使になるのだとして、その人がなれるか否か決まるのはいつ? 今? 産まれるより前? あたしが天使になれなかったのは何故だ?」 激しく咳き込みながら気付く。今さらそんなことを訊いて何になる? どうやって。誰が。いつ。どうして。……違う。自分の握っていた時計の砂は落ちきって、最後に一つ、どうしても知りたかった。 「……なあ、天使ってなんだ?」 長い沈黙の中、エメラは自分のかすれた呼吸だけを聞いていた。 テウはふと息を吐く。 「……エメラお姉さま、こういうのはどうかな」 「輝いていようとして。きらめいていようとして。前を向いていられるのが尊いことだよ。つつましい起、奥ゆかしい承、他愛ない転がささやかな結でオフセットされて続く永遠の三年間を日常として。そうと思わずに、信じようとせずに信じて。 本当に、終わりさえなければね。 自然にしていたら人間はすぐに後ろを向いてしまう。優しい日々にいま包まれているのにも関わらず、なぜか視点を時間切れの端っこまで飛ばして、まるで寿命を待つみたいに後ろ向きにいまの自分を眺めたがる。 確かに、私や三年間は、そこに永遠を見付けるにはあまりにも短くて。もちろん、いつか必ず終わるものだよ。 やがてエメラお姉さまも私も卒業して、誰も知らない人になる。 そして、毎年、お別れする子と同じくらい、新しく来る子がいるよ。私たちの痕跡は少しずつ消えていくよ。お料理のこだわりも。花壇のお花の趣味も。私が暮らしていたあの部屋のベッドに腰掛けて、私と同じ制服に初めて袖を通す誰か。機械いじりが上手な子やいたずらが好きな子もいるのかもしれないね」 エメラの遠のく意識を、その声は甘やかに包み込んだ。 「だから私たちは何も残さない。私たちのもとに何も残らないんじゃなくて、私たちが消えていくんだよ」 エメラには理解できない。あたしはここにいる。信仰したあたしがここにいる。取り残されたあたしがここにいるんだ……。 「でも、誰にでも訪れる……きらめいて美しい、安らかで幸せな、きらきらと輝く……楽しい一瞬がね。一度じゃない、何度も……。 なぜって、そういう時間だから。私たちの特別な時間だからね」 ただ戻りたいと願う……どこに? 何かが自分から離れていくのをエメラは感じ取った。 「……ヴァニちゃんと一緒に亡くなったのは、エメラお姉さまが一年生のころ……怒られて島を脱走したころに、すごい好き嫌いをしていた困った子だよ。ちょっと臆病で、エメラお姉さまにしか懐かなくて。誰のご飯も食べてくれなかった」 ……ああ、まだいたのか。特に確信はないままに、もういないものだとエメラは思っていた。 テウは今まで育てた全てのうさぎのことを覚えている。名前は付けない。なぜなら、みんなは覚えてくれないから……。いつかそう教えてくれたテウの表情を思い出す。 「私たちがひらがなで綴りたがる純粋無垢の象徴。いろんなものを貰ってきたけれど、あの子たちが減ったり増えたりしないことは特に大切だった。 誰にでも、輝く一瞬が訪れる。みなが白い内心を大切に持っている。私たちはいずれいなくなるけれど、そのぶん誰かが訪れる。 去った分だけ訪れる。消えた分だけ現れる。 そして学園では、輝く一瞬は代わる代わる生まれ続けて、いつまでもそこにきらめいているのは、私じゃなくても学園の私たちなんだよ。 そんな永遠の私たちは、平衡したまま永遠を与えられた私たちのことは、天使に見えてもおかしくないんじゃないかな。エメラお姉さま」 理性が解釈を拒んだ。 信仰は何のために。 「ねえ、エメラお姉さま。そこにあるんだよ」 誰のために? 学園の校舎の窓から最後の光が消え、夕陽の去った空は煤けた黒色に塗り潰されていく。 雪原がぐにぐにと動いた。テウの周りに群がったそれは徐々に解れてうさぎの姿をとった。 エメラの腕の中でも一匹のうさぎが身をよじり、引き摺られるようにエメラは地面に倒れ込む──ことはできずに──空中に投げ出され、ごく短い自由落下を経て、ぱしゃん、という間の抜けた音とともに穴の底へ落ちた。 「…………コメテめ」 こほこほと咳きこみ、エメラは小麦粉を吹き出す。落とし穴の罠だ。耳としっぽに不愉快な感触を感じて腰をひねると、けばけばになった尻尾がピンク色のスライムに浸かっているのが見えた。これでは良い毛皮にならないな、と、少し冷めた頭で考える。 穴の外から雪を蹴って近付く足跡が聞こえた。 エメラは胸の上に乗ったうさぎと目が合う。汚れのない白──すべての汚れを一身に浴びたエメラをよそに、うさぎは無表情で平然としている。 しかし彼女は気付いた。縦穴に落下したそのとき、抱き締めたうさぎが身をすくめたことに。 穴の上から手が伸びる。縦穴に閉じ込められていた冷たい空気を吸って、エメラは、この学園にも気密性の高い地下室があることを思い出す。 「テウ、」エメラは手を拭い、両腕でうさぎを抱え上げて示す。 「……ここから出してくれ」 【13】 私は船の上で、お姉さまたちと肩を寄せ合って縮こまり、灰の降る島を眺めていた。 エメラさんは、小屋のうさぎたちは既に別の船に乗せたと言い、抵抗するコメテさんを船に押し込んだ。船は列を成して、島の人たちや学園の生徒を載せてラヴァ島を離れた。しかし、船室を覗いた私たちは、やがてエメラさんとテウさんの不在に気付いた。 私たちは戻ることを許されなかった。私たちの後からも船は次々に来る。きっと誰かを助けに行ったのだ、あのどれかに乗っているのだと。 高波が船を揺さぶって、耳障りに軋ませた。 その音が昨日の記憶を……、あの不吉な感触を再生させる。 首を傾げたうさぎ。 あのとき小屋の扉は重く軋んで、私は渾身の力で押し開けた。 だが、今朝は違った。扉は何の抵抗もなく開いたのだった。 正体のわからない不穏なイメージが反響する。 私の指先で、何かが崩れ去った気がした。償えない罪を犯したような気がした。 呼吸を整える。私は細い糸を渡るように慎重に、不穏な連想から意識を遠ざける。誰に見られるわけでもない内面を覆い隠そうとして、頭を振る。 大きな天秤に揺られているような気がした。
バランスうさぎ天使 Balanced rabbit-angels 了